私アテナとしてお話しします。
私はアンドロギュノスに向けて話をしていますが
アンドロギュノスは自分が何者であるかを知ることが大事だと常々伝えています。
例えば、私アテナが自分を何者かをしらず
アマテラスに憧れ
アマテラスを真似したらどうでしょう?
ある程度の形にはなるかもしれませんが
アマテラスにはなれません。
似た「なにか」になるだけです。
それをミメーシスμιμήσιςと言われてますね。
プラトンとアリストテレスの意見は真っ向から食い違いますが
私はプラトンに近い意見です。
例えば、この巫女は
ラクシュミーの質があると言われています。
本人は特に欲しい質でもなく、人に羨ましがられたら「いらないからあげる」とサラッと言っていたことがあります。
ラクシュミーの質なのですから、それは捨てられず離れられないが
己の質をよくわかっておらずそんな発言した巫女と
自分の質とは違うものを憧れ欲しがる人がいるという興味深い構図がありました。
人に憧れるのはよいのです。
その人が美しいな
いいな
素晴らしいな
憧れる
それは良いのです。
でも、憧れる存在そのものになろうとするのはどうなのでしょうか?
憧れの対象
つまり、自分以外のものになろうとするのではなく
自分が自分になればよいのではないですか?
私アテナがアマテラスになるのではなく
私はアテナであると気がついてアテナでいればよいのではないでしょうか?
どんな方にも素晴らしい質があります。
それをどれだけ自覚し
引き出せるのか
質の通りに生きられるのか
ですから私は
自分が何者であるかを
知ってくださいと言っているのです。
アンドロギュノスは
自分に戻る壮大な旅です
他人に憧れて
他人の真似をして
二番煎じになっても
それは自分に戻ることにはなりません
自分の中に全てあるのです。
アンドロギュノスの女性は内に向かうと私は言いました。
外ではありません
自分の内です
そこに答えがあるからです
答えは私は知り得ません
ご自分で探し当てるのです