僕が
驕ることなかれ
といったら驕ってない人がネガティヴに受け取って
私のどこが悪かったんだろうと心配になってる反面、届いて欲しい人には全く届いてない。
よくある現象です。
巫女が昔よく言ってましたね。
自分が菩薩だと思うなら
少なくとも
二桁の人を救え
本当は二桁では足りませんよ。
二桁ってことは多くの人って意味です。
多くの人を無私の心でコンスタントに「救えているか」
これを巫女は話してましたね。
できてる!
となった人。
危険です。
勢至菩薩( ◠‿◠ )に聞いてご覧なさい。
ホンモノの菩薩に聞いてご覧なさないな。
決してできてる!( ◠‿◠ )とはいいません。
上手く救えてるかな?( ◠‿◠ )
役に立ててかな?( ◠‿◠ )
大丈夫かな?( ◠‿◠ )
と常に自問自答してますよ。
みなさん、自分はすごい!って高みを覗いたと思う瞬間あるでしょ?
高くいけたって感じる時ありますよね?
その瞬間、どかーーーんと下におちてます。
真っ逆さまに真っ黒いところにおちてます。
菩薩はそれないですよ。
そんなことないと言ってもね、天界からは丸見えなんです。
みなさんが普段みえてないものもぜんぶ見えてますよ。
だから、言ったもん勝ち
思い込んだもん勝ちではないんです。
さて、みなさんは日本人だからある程度仏教知ってるね?
だから、菩薩だ如来だとわかりやすく話しています。
でね、菩薩たち、あるいは菩薩に手がかかってる人たち、仏教的には
阿羅漢、アラハンたち
何すると思います?
誰かが言ったことをなんの疑問も持たないで受け入れるなんてことはしないんです。
基準を自分の外に置かないんです。
つまり、内向きです。
みなさん、只管打坐って知ってるね?
ただひたすらに
只管
座禅する
打坐です。
これは道元さんがいいましたね。
じっくり自分の内面に入るってことです。
だるまで有名な達磨大師も壁に向かって九年座禅したのは有名ですけど
ただ、触ってぼーっとしてたんじゃないんです。
昔ですから木造ですね。
木の節なんか最初はぼーっと見えるわけです。
そうすると、だんだん自分の心の節もみえてきて
あれ?自分はどうだったかなー?なんて思うようになるんです。
九年は長いかもしれませんけど、それくらい一心不乱に自分と向き合ったんですね。
今の皆さんに
壁に向かって九年座禅しろとか只管打坐しろとは言いません。
でも、それくらいみんな自分の内にひたすら向いてるよってことです。
仏教系はそういう傾向です。
内面にひたすら入るんです。
僕もこれ勧めてます。
一方で、仏教系と正反対のところにいる菩薩たちもいます。
みなさん、明治維新の志士たち。いますね。
彼らがそうですね。
無私の心でひたすら天下国家のために働きました。
そんなに自分の内に入ってないかもしれないけど、それを失ってもあまりある無私と行動力で活躍しました。
または、圧倒的な自由な心で芸術家たちはみなさんに自由と美を教えてくれてますね。
これはゼウスやマナが専門なんで彼らに聞くのが一番ですけど
芸術系の菩薩たちの自由な魂は絵画や音楽、クリエイティブなものに必要なんですよ。
哲学者があれだけギリシアに出たのは
ゼウスがギリシアに自由な家風を残したからです。
とまあそれぞれの菩薩の様相をざっくり話しました。
内面に入るのが苦手なら
明治の志士たちみたいに圧倒的な無私で行動力駆使して駆け回るか
圧倒的自由度で美をふりまくか
どれがいいですかね?
他の分野にもまだ菩薩の陵域ありますけど
この三つの中だとしたらどれがいいですかね?
この辺の話、リクエストあればまたしますね。
みなさんは
自分が菩薩だとか
なんだかんだとレッテルっていうのかな?
自分に冠つけることなく
その中身を充実させてくださいね。
役職名なんてどうでもいいんですから。