深夜にこっそり書きます。
こっそりね。
アンドロギュノスって それぞれのアンドロギュノスのテーマがあるの。
それを見つけるのもソウルワークといえばソウルワーク。
私たちも私たちなりの
テーマがあって
それはわかってた「つもり」だったけど
いやいや、もっと深いところに真のテーマがあったわ。
それは見ること
どういうことかというと…前にブログで書いた私の理想の男性の夢について
設定が高校生。私が1番前の席。
彼氏はその列の1番後ろ。
つねに私を「見る」席。
掃除を押し付けられる。
彼氏は絶対手伝わないがずっとそばにいる。
私の掃除を「見てる」
これが私の理想の彼氏。
そばにいて見てて欲しいし
お互いを見てる。
お互いに見てることを知ってて欲しい
これは二人ともそうだと今さっき気がついた。
彼が初の講演会した時
私を
俺の夢の実現を見てた人
といってみんなに紹介してくれてたの。
みんなに紹介してくれたこともありがたいことだけど更に
支えてくれたでもなく
応援してくれたでもなく
見てた人
って…
これに端を発して色々思い出した。
私がこのブログで巫女宣言した時
彼も急Twitterで「俺はやるぞ」宣言したの。
実はその数時間前に二人で
これから「やる」から
「見ててね」
「見てるよ」ってLINEしあってた。
ここでもそう。
手伝うでもなく
協力するでもない
お互いがお互いをみてて
お互い見られてることを知ってるし
見てて欲しい
我々の中での「見てる」とは単なる観察や認識とは違う。
違うけどまだ腑に落ちる言葉が見つからない。
「見てる」は物理的に見てるだけではなくて
相手の本質を見てるとか
成長を見てる
成長してるが根っこは変わってないのを見てる
というのも含む。
今は全く彼の情報はない。
敢えて見てない。
そんな中我々はお互いを見ることできるのか
心の目で相手をみているのか
アンドロギュノスは過去世の失敗したところから始まる。
だから、引き離されたところから始めたんだけど
何があってもお互いを「見てる」を宇宙に試されてるのでは?と思った。
あくまでも仮説。
でも、仮説濃厚な気がする。
我々のテーマは
「見てる」
「見てる」とは自由という愛なのかもね。