今アテナと話してました。

神道系は特に明るいしポジティブで優しい。
元気が出るメッセージが多いね。
ギリシア系は判断や自分を問うメッセージが多くて人によっては厳しく感じる人もいるはず。

でも、天界全体として

それぞれに価値がある

ってことを言ってるんだよね。
それこのブログでかなり言ってる。

私もそうだと思うし
魂の絡繰や魂の根源からしてもその通りなんだけど
最近何故か違和感を覚えたんだ。

ここで天界の人が
価値があるよ
ということ
その言葉が鎮痛剤になって

私には価値があるんだ!
◯◯がそういってたから私には価値があるんだ!
となってる人がでてきた。


うーーーーーーん

私のメッセージって依存先に使う目的でおろしてないんだよね。

前にも書いた
Education educazioneであって
本人の中にあるものを外へ引っ張り出す
気づきを促すようなメッセージなわけ。
だから、依存先には向いてない。
でも、依存する人がいる。

価値があるって言葉は長年辛くて苦しい人にははっと気づきになって目の前が開けるような言葉になるから
その面ではないんだけどね。


なので

「価値がある」という言葉は目覚めたり気づきの言葉であって単なる通過点。そこに滞留させたり依存させるものではない

となるかなー

価値があるという言葉は通過点なんだよね。

詳しく書くと
価値がある→気づく、目覚める←天界や私の意図するところ

価値がある→居座る、滞留←そんな意図ナッシング

価値がある→これを錦の御旗にして思考をストップ。退行や依存←え??

になる。


私は幸にして天界の人と話す機会を持てるわけで
よく天界の人と話すんだけど、みなさん地上にいる時に自分と向き合ったり考えたり悩んだりしてる。
それも常人を超える時間かけてそうしてる。
何かを残したり成したりする人たちってやっぱり内面に深く入るんだよね。
なーんも考えてません。
行き当たりばったりです。
その場のことしか考えてません。
カンのみです。
インスピレーションだけです。
って人はほぼいない。



多分、自分の外に価値をおいてそこからエネルギー供給したいんだろうね。
モテるモテないの話と源は一緒だわ。


じゃあ、今の私。誰かに
価値があると言われても
価値がないと言われても
どっちもどうでもいい。
んー、天界の人であっても私の価値をお前が決めるなって感じるかなー

私の価値は誰かが決める前提じゃないし、価値があるとかないとかなんだかんだという領域に私はもういない。
どうでもいい。

こういうこと書くから怖いとか冷たいとか言われるんだろうねー
でも、怖くても冷たくても私のことお好きに思っていただいて構いません。
それは私が関与することではなくてみなさんの感じ方なので