デルフォイの記憶がより鮮明になっている今
私はギリシア三哲人の中で1番ソクラテスに近いという自認が芽生えた。
派閥でいうとプラトン派だが私自身は明らかにソクラテス。
そもそも「前提を疑え」というのはとてもソクラテス的。
ソクラテスもデルフォイの巫女から
「ソクラテス以上の賢者はいない」という神託を聞き
疑いそれを知ろうとした。
ただ、周りの人から見たら
くどい
うざい
しつこい
そばにいて欲しくない
だから、最期はあのようになった。
アテナの虻と呼ばれるほどよく喋り
構わず疑問を投げかけるソクラテスは厄介者でしかない。
私はもちろん、ソクラテスほどではないが
ソクラテスのような傾向がある。
前提を疑え
ということであれば
そもそも前提とはなんだろうか?とか
前提なくして思想や理論があってもいいのではないか?という疑問が浮かぶ。
ソクラテスなら私の疑問をきっと面白がる。
ただ、ソクラテスは答えは出さない。
自分で辿りつけ
いや、答えはすぐくるわけではないし
自分の望んだ時に答えがくるわけではないということを知ってるから
疑問をぶつけたら共に考えてくれるが
答えはくれない。
ソクラテスは著作を残してないが周りの人が残している。
その人たちの書を読むとソクラテスはそのような傾向にある。
実は、私は中学生くらいからこのソクラテス傾向が如実に現れ
それを父にぶつけていた。
父も私と同じくらいソクラテス傾向があるので
二人で何時間も話した。
母は完全に蚊帳の外。
入り込む余地はない。
さらに実は
彼とここまでではないが
ソクラテス的話をしたことが何度もある。
彼も「疑う」がデフォルトで実装されているから
そういう話は特別なことではない。
そして、ソクラテス的話を誰から構わずできるわけがないのも知ってる。
ソクラテスが身近にいたらめんどくさいことこの上ないから。
だから、めんどくさいと感じない人とひっそり話すしかない。
私はそれが父であり
彼だった。
彼でないと話せないこと
それは
自分の心をオープンにするだけではなく
自分の在り方や自分のコアを彼に話しても
彼が同じような熱量で返してくれる内容のこと。
アンドロギュノスはこの部分がかなり重要になってくる。
マヌとアテナを見てると
強くそれを感じる
あの二人は別次元であるが。