みなさん、こんばんは

今日も愛について語ります。

みなさんは条件も取引もない、ただ存在するだけよい愛を教えられずとも感じ知っています。
それは魂そのものが愛だからです。

確かに、そのような純粋な愛に触れたこともありますね。

でも、反面
愛について考える時
虚しさを感じることもあったでしょう。
なにかが足りない。
満たされてないという思い
十分でない
相手を失う恐れ
それがあったのではないですか?

それは地上にいる時に愛の本質である統合性からではなく、欠乏から学んできたからです。

愛の渇望、欠乏は凄まじく
地上を荒らします。
個人の問題ではなく世界中を席巻することに発展します。

今の世界が実際そうです。

至る所に愛の渇望、欠乏があります。

かつてないほど豊かで
事足りている日本においても
いや、豊かだからこそ
愛の渇望、欠乏を起こしているかもしれません。


多少愛深き人
愛が豊かな人がいても
渇望欠乏のエネルギーは無自覚に奪い尽くします。

そして、愛を得るために
自分を変え
嫌われないような振る舞いをし
本来の自分ではない自分を生きていました。
渇望からくる愛は
得る愛であると誤学習し
愛するに値する自分であるように作り変えてしまいます。

頷く人も多いですね。

私は愛について語る時
ダークワーカーと同じく闇を操ることを勧めます。
光をもって愛に向き合うのではなく
闇を用いて愛と向き合う。

何故なら、渇望、欠乏からくる愛と相対するには
光は通用しません。
切り離された自分を統合するには闇を使うのです。

ダークワーカーのことを軽んじたり
闇を毛嫌いしているひとが多くいるのはよく知っています。

それは自分の中にある認めたくない闇があるから
向き合いたくない闇があるからではないですか?

あなたの闇はあなた自身であり
あなたの問題であり
あなたが向き合うものです。


恐れもなく
安全で
統合性から来る本来の愛を取り戻したいならば
闇を使うしかないのです。

愛というのは光だけではありません。
愛は光でできていますが
光だけでできているわけもなく
全てを含みます。

闇を毛嫌いする時
相手の闇を批判する前に
自分の内側を見てみましょう。
自分の闇を相手に見ているのだと気が付きます。

相手を批判するとますます分離がはげしくなり
統合から離れます。

どうかみなさん。
己の愛の渇望欠乏に目を向けてください