耄碌ジジイが出てきたが、皆は元気だったかな?
ワシは相変わらずよ。
こちらは病がないゆえ
いつも快適であるぞ。
巫女の息子も元気に跳ね回っておって
巫女の息子らしいなあ
さもありなんとワシは感じ入っておるところである。
さて、みなよ。
まあ日本人たちと言ってもよいのかの。
「ありのままの〜」というセリフが流行ったようだが、ちっともありのままの自分でいいとは思っとらんの。
ワシが肉体を持った時に話したことは難しいことではない。
ワシがいたところは自然に溢れているところであった。
自然とは無理がない。
しかも調和しておる。
この自然のように人も生きれば無駄な争いも騙し合いもなくなるのではないか
と言ったのだ。
自然というのは
人の手が多少入ったところでもろともしない。
しかし、一気に人が自然の循環の輪を崩すとしっぺ返しが来る。
そうやって、自然から学ぶことは多い。
ワシは神について特に語っておらんが
肉体のワシの目の前に広がる自然の姿はまるで神の姿を体現したようなものであった。
その前において、なんと人は無力な存在なことよ。
あれこれ小狡いことを考えても神には敵わん。
人間知など神には自然には敵わん。
自然は気取らず
そのまま
ありのまま。
春が来れば花を咲かせる
それが自然のありのままであるからの。
皆は何故か冬なのに花を咲かせようとする。
それで苦しみを使っておるではないか。
それを言っても気づかんものが多い。
真冬に紫陽花を咲かすような愚か者はおらんだろう。
しかし、みなは自分の人生でそのようなことをしておいて何故咲かんと悩み苦しみ悶えて、菩薩に助けてくれと盛んに声を上げる。
ワシは待てと言いたい。
菩薩に助けを求めるのもよし。
だがの、己のやってることに気がつくのも大事ではないか。
そうでないと菩薩が助けに来てもなんもならん。
そうであろう?
冬に紫陽花が咲かんということに対して菩薩は
「冬には紫陽花は咲きません」と言うしかないであろうが。
ところがみなは冬に紫陽花を咲かせたがる。
冬ならば季節を待つとか
違う花が咲いてるのを喜ぶとかそのようなことができんのだ。
とにかく、冬に紫陽花を!これしかない!
といって菩薩を呼ぶ。
菩薩も大変な仕事であるの。
己がありのままであるならば、冬に紫陽花を咲かせようなどとは思わんのだ。
そんな誰が聞いても無理なことを考えもしないし
やろうともしない。
しかし、傲慢な心や待てない気持ち、そのままの自分を認めない気持ちが冬に紫陽花を咲かせようとするのだ。
冬に紫陽花を咲かせようとしても、紫陽花も困るの。
困るであろう、紫陽花も。
ワシがこの話をすると
じゃあ、なにもしなくていいのですか
進歩進化しなくていいのですか?と必ず聞いてくるものがいるが
ワシはそんなことは一言も言っておらん。
よくよくワシの言うことを読むことだ。
冬には多くの木々は葉を落とす。
◯んだように見えるがひっそり春がくる準備をしておる。
自然をよくみておればわかることよ。
そして、暖かくなれば花を咲かせる。
そこに無理はない。
ワシはそれを言っておる。
耄碌ジジイの戯言と笑って流しても良いぞ。
しかしの、冬に紫陽花を咲かせようとしてるものが多い今の日本において
ワシの言葉はちーとは効くとは思うがの。