ブログが少なくなるかもと言いながら、ワシが出てきたぞ。
ワシならまあ良いだろう。
庭の鯉を見ながら少し話してみるとしようかの。
「型破り」という言葉ある。
そもそも言葉で括るのはあまり好まないがこの際それは置いておく。
「型破り」というのは
型を知ってないと破れないのではないかな?
このブログの主の巫女も型破りの方かもしれないが
あやつも型を知らぬわけではない。
型を見て、これはここに無駄があるとか
これはおかしいとか
型を見てからなのだよ。
別に最初から破天荒してるわけはないし
型を知らないわけではない。
型があって
知って
型をはずす、こえる、破る
こういう者たちが発明発見をしたり
世の中を変えていくのだろう。
それはそれとしてよいのだ。
ワシは型があることがいいとか悪いとかそういうことを言いたいわけでもなく
それを破れとか維持しろなどと言いたいわけでもない。
型というのは地上においてはなんにでもある。
しかし、こちらにきてみるとそんなものはどうでもよくなる。
特にワシは地上にいる頃からそれは感じていた。
型というのは勿論、良い面もある。
その型の通りに生きれば不都合は起こらない。
大抵うまくいくであろう。
そのための型である。
先人の工夫とも言えなくもない。
しかしの、人というのは
必ずしもその型に全員合うわけではない。
人というのは刻々と変化する。
変化しているのに型は変わらない。
となると?
無理して型に合わせてないか?
逆になっておるのだよ。
不都合なくいられるように型があるはずなのに
型の通りに生きようとすると自分に不都合が起きる。
これはどうだろうか?
人や物、自然は常に変化している。
日本ならばよりわかるであろう。
今なら春を感じることを増えてきている。
つい先日までは冬真っ盛りだったのに。
型に沿おうとして己を苦しめておらんかの?
どうかの?
ワシからみると
型から外れてもなんの問題もない。
なのに、頑なにこだわるの、日本人は。
諸行無常ということを実感してるおるのに
何故か型にはこだわる。
面白いの。
ワシの世界は地上と違い
細分化しておらんのだ。
つまり、境目がない。
わかるかの?
さっき名前のことを言ったが、皆は名前をつけて分けたがる。
しかし、ワシがいる世界は名前はつけん。
境目など設けない。
感じるのみ。
ワシの庭には鯉がいると度々いうが
それは皆にわかるように庭の鯉というだけであって
言語化することによって細分化されるだけなのだ。
ワシは庭に行く時
庭を感じるのみ。
そこに広がるものを感じるのみ。
上も下もなく
あそこもここもない。
ただ、全てがそのままにあるというだけである。
だからの、みなよ
神道系がいうように
感じてみよ
何も言葉にせず
ただ感じてみよ
大きな流れに身を任せ
じっくり感じてみよ
そうした時に
それまで感じたことのないものを感じるだろう。
それをこのワシに教えてくれ。
ワシはそれを楽しみにしておるぞ。