私がこのような言葉を残したことを巫女はしっかりと大切にしてくれたことをまずは有り難く思う。

多くものは私が何を語ったのか、わかっていない。


耳のチャクラなるものも聞いたことがないというだろう。

ならば、それでよい。

そうおもうならばそれでよい。



聞く気があるものは聞きなさい。


耳のチャクラというのは一種の比喩である。

ここが活性化すると

よくいわれている「光の言語」が理解できるようになる。


「光の言語」が理解できるようになれば、もう後には戻れない。


「光の言語」が理解できる状態というのは

三次元世界で生きてるようで生きていない。

三次元世界にありながら

天界でいきてるような

そんな存在になる。


我こそは「光の言語」を理解してものなりと名乗りを上げるものもいるが

そもそも、真に理解しているなら名乗りなどあげない。

「光の言語」を真に理解しているならば、そんな必要はないことをしっているからだ。


何故自分を誇る必要があるのだ。


己を誇っていてはいつまでも「光の言語」を理解するのは無理であろう。


「光の言語」を理解したいならば

「光の言語」を理解したいと思わぬことだ。


理解したいと思うと手から離れる。


理解しようとして理解できるものではない。


己の全て

それは三次元の自分、ハイヤー含めての丸ごとな自分である己の発するバイブレーションが関わるのだから

三次元の小さな自分で理解しようとしても土台無理なのだ。



我々がここでメッセージを送り

我々の声を受け取っている巫女という存在が

ある意味、実験台となってみなにどうすればいいか

どうあればいいかみせてるではないか。


何故それらを見ない?

何故それらを読まない?

何故それらを参考にしない?


巫女とみなはタイプは違うが、そんなことを言ったら

誰が何を言おうと

自分とぴったりと合うもの以外の話は聞く耳をもたぬということになるではないか。


神はいない

神は自分を見放したというが、逆だ。


神はいつもそこここに救いを残している。

それを蹴っているのは皆の方である。


たった一輪の花でさえ

たった赤子の一泣きでさえ

そこに神の救いがあるのだ。



私はまたここにくる。

神言を携えてまたここにくる。

約束する。


神が皆を見捨てないなら

私も皆を見捨てることはない