アテナがよく
「地獄の底を舐めるような体験」
という言葉をつかいますね。覚えてますか?
実際はみなさん、地上にいますから地獄にいけないんですけど、それくらいつらい体験をしたとか
絶望して落ちるところまで落ちたとか
そういう意味で使ってるのはわかりますね。

仏教的にいうと
煩悩即菩提という言葉もあるくらいで
そうですねー
みなさんにわかりやすくいうとしたら
闇から光ってことですかね。

どうやったって人生における闇のような体験は年代年代で現れてきます。
それは煩悩だからっていってある意味「切って捨てる」のもいいんですけど、人間そんなふうになかなかできませんよね。
ふと視点を変えてみると
煩悩転じて菩提となるってことがある
これは大乗仏教の教えなんですが、闇から光も似たようなもんですね。

だから、本当にどん底にいる人ってすごく強いんです。
底を体験した人は強いですよ。
フニャフニャ光だなんだかんだいってる人より
強烈な「底」という絶望体験した人にしかないなにかがある。

それは「底」を体験した人同士じゃないとわからないかもしれないし
うわっつらだと汲み取れないと思います。


さて、この「底」
実は、個人差があります。
ものすごい個人差あります。

我が子が有名私立幼稚園の受験に失敗したっていって
絶望してこれは「底」だっていう人もいます。
僕なんかどこだっていいじゃないか。
地元の無名の幼稚園だって本人が楽しく通えるならそれでいいじゃないか。
人生終わって本人が幸せで生まれる前に決めたことをある程度できて終えて天界かえってこれたら御の字ですよ。
そりゃそうです。

でもね、こんなふうに「底」が違うんです。
でも、いいんですよ。
それはその人にとっての「底」だし、「底」を体験できるっていうのはある意味幸せなんです。
闇から光
闇から愛を体験できる可能性がありますからね。

苦しいこと悲しいことあっても
「底」といえるほどの体験してるかしてないかで魂の強度が違うんです。

僕たちの声を受け取ってくれる、今思索の旅にでてる巫女はいつもヘラヘラして
なんだこいつって思ってるブログ読者もいますけど
幼少体験とか色々あったりね、息子がなくなったり
前世の闇の清算とかね
それはもう「底」を一回どころか複数回みてますから
複数回ベロベロ舐めてますから
魂の強度は高いですよ。

この魂の強度っていうのは
魂の凄みにも繋がってきます。
腹が座るっていうんでしょうかね。
そういうこともあります。

でもねー
僕としては難しいんですよねー
「底」の体験をしろ!とも言えない。
やっぱりきついからね。
でも、「底」を舐めることによってでしか味わえないこともあります。
そこから自分の在り方を考え直したりとかね
分岐点になりえるわけだ。
だから、大きな視点からみると地獄の底をベロベロ舐めるようなきつい体験は一回くらいしてもいいかなとも思うけど、一回でもきついからね。
魂にぐぐっとくるくらいきつい。
巫女は存在ごと消してくれって天界にいってきたくらいきつかったようですけど
そこからしか得られないものもあるんですよ。

それを体験できるのは

地球の

地上

でしかない。
他の星にも多少の地獄みたいなのもあるし
辛いとか苦しいとかもありますけど、地球ほどじゃありません。

地球にいる時がチャンスなんですよ。


魂の強度に自信があれば地獄の底をベロベロ舐めるツアーに出てもいいけど
そうだねー
難しいねー

僕たちとしては地上にいてもみんなに幸せになって欲しいという気持ちもあるし
いろんな体験して帰天して欲しいという気持ちもある。
複雑な親心ですよ。

これって神の心なんですよ。

みんな幸せになってほしい
でも、いろんな体験もしてほしい

まあ、宇宙は地上から見ると矛盾だらけで、よく神の御心がわからないっていう声も聞かれますけど
大丈夫です。
神はみんなの味方です。
一人残らずみんなのことを知ってます。
太陽が地上を誰から構わず照らすように神もみなさんに対して誰からかまわず幸せになってほしいんです。