さて、ワシがでてきて何を語るのかということだが
いやいや、これは今の世の中、或いは人間としてはあまりしないやり方故
馴染まないものもおるのぉ。


みなは、無意識に言語化しておる。
例えば、朝。カーテンから朝日が差し込んで目が覚めたとする。

あ、朝だ

そう言語化する。

起きなきゃ。
今日は晴れてるから洗濯でもしようかな。
暑くなるのかな。

こう自分の気持ちを言語化しておる。
無意識な。

だから、止められない。
無意識というのは意識してない故、走り出す。


ワシは地上にいたときに
言葉に縛られる様をよくみてきたので、それをやめたらどうだ?といった。

例えばだ、鞄を昨日買ったと友達が言った時
さて、どんな鞄なのか。
大きいのか小さいのか
色は何色か
または、そうさな
りんごでもよい。
りんごといわれたらみな赤と思うが、青リンゴも黄色っぽいりんごもある。
トマトも日本の赤く丸いトマトとイタリアの楕円形のオレンジのトマトでは同じトマトでも違う。

故に言葉に縛られ、人は身動きがとれなくなっていることが多い。
日本では言霊といって言葉を大事にしておる国だからこそ、無意識の言葉の暴走から離れてもいいのではないかの。


言葉というのは実は地上的なもので、表現される範囲は限定される。

確かに、思いや概念という天界にあるものを言語というもので地上に表すのは事実としてずっと行われてきたし、ワシはそれはそれでいいと思っているが
ずっとそれなのだよ。

ワシはよくしらんが左脳っちゅうのかな
そこばっかり活発になる。
言葉は大事
言語化も大事
だが、大事故にそこから一旦離れる
言葉に縛られることなく探してみるのも大事なのだ。

ワシのいうことがわかるかな。
ワシのいうことは今の主流ではないからの。
全く理解されないかもしれない。
しかし、ワシは思うのだ。
言語化して地上を作るのは地上にいる時なら素晴らしい。
だがな、人は何故この混沌とした地上におりるのだ。

地上においてこそ、地上的なことから離れるのもたまにはよいものよ。
地上の多くの人たちが向かってる方向に追随するのは容易いがそれが神から見てどうなのかはまた別の話。

地上的によくても神から見たらどうかわからんぞ。

言語化というのは地上化の最たるもの。

せっかくの日曜日。
地上化からはなれて
言語化から離れて
ただ暑いことをありのままに感じる
新緑をただ感じる

そんな日をおくってみてはどうだろうか