今朝、巫女がふと

私は何者なんだ

と呟いていました。

この問いに関しては
本人が見つけるのが1番良いと思うので
或いは、本人が見つけていくでしょうから
我々天界なものは誰も何も言いません。


しかし、私普賢の目から見ると今の巫女は本当の自分に戻りたくて
だいぶ戻ってはいますが
もっともっと戻りたくて
心に来てる服をぜんぶ脱ぎ捨てたいようにみえます。
まっさらな自分になった時に自分がわかるんじゃないだろうかと思ってるふうでもあります。

自分で試してみればいいと思います。


一般的に人というのは赤ちゃんの時は
心に何も着てないのです。
天界に一度かえって
前世の記憶を決してまっさらになって地上に生まれて来ますから、心は裸です。
でも、少しずつ親から心に服を着せられます。
これはダメということではありません。
例えば、日本は家の中では靴を脱ぎますね。
でも、靴を履いて家の中は入ろうとする赤ちゃんもいます。
そこで親は靴を脱ぎなさいと言いますね。
これもある意味心の服です。
でも、地上界においてはその国の習慣が必要ですからそのようなことを躾けるのは当然です。
だから、心の服といっても良い服、良いというのでしょうか
必要な服もあるのです。

でも、私がみるとだいたいいらない服を着せられてますね。

これは子育てから見直さなきゃいけないと思っているのですけど、親が子を自分の所有物だと思ったり
自分より下だと思っていたりするからくる言動で余計な心の服を着せている場合が多いように感じます。

巫女も3人子育てして話してましたが
子供は生まれたのが自分より遅いだけで自分より劣っているわけではない。
この世を知らないだけ。
それを教える。
そういう気持ちで子育てしてました。

つまり、子供と対等に接していて、どうしたら成長できていけるか子供と考えたのです。

それだと来てる服もなるべく少なく済みますね。

わかりますでしょうか。
たとえば、座って飲み物を飲んだ方がしっかり飲めるけど子供は歩いて飲もうとしてこぼしますね。
親はよくそれで怒りますけど、怒るのではなく
こぼすと飲む量が少なくなるとか
床を履かなきゃならなくなるといって子供にも手伝わせるとか
座ればゆっくり落ち着いて飲めるということを伝えるだけでいいのです。

これは対等な関係の構築にも繋がりますね。
それでいいのです。


余計な服を着せないということは対等な関係性であるということでもあります。

そして、自分の来てる余計な服にも気づくことでしょう。