岡潔と小林秀雄の人生の建設が掲載されてる本を読んでるところです。


岡潔と話したいなあと思ったのですけど
勢至( ◠‿◠ )みたいに気軽に話せるわけないのは流石に私でもわかります。


文系と理系と分けるとしたらうちの父も「ど理系」なのでよくわかるんですけど
真の理系の人って変人が多いんですよ。
じゃないと新しいこととか普通の人が考えないことを考えられないわけ。
文系とぜんぜん違います。


んで、まず定義するのよね。

光の速さがこんくらいだった時にこうなるとか
ぜったい先に定義が入る。
定義を決めてから話すの。
もうこれ、父や他の理系たちは必ずやりますね。

まあ、父と長く接してきたので変人(失礼)との付き合いは得意なんですけど
岡潔と「かむかう」ことが今まであまりなくて
何冊か本を読むとか
動画を見るとか
そんなもんです。
でも、だからこそ話したい!

と思ったんです。

そしたら、多分岡潔でもなく理系の人でもなく
別の「ど理系」の人がきて話してくれました。

こういうことはあります。

親交がないのにいきなり
ミカエルぅ!といってもこない場合もあるっぽいけど、ミカエル系の誰かはきてくれるというのは誰にでもあります。

いきなり総理大臣とは話せないけど、その下の下の下くらいとは話せるみたいな?
というのはきいたことあります。
でも、ミカエル本人は呼ばれたら行くよって言ってるんで、どっちなんですかね?
知り合いならいくよなんでしょうか。
ま、そこはいっか。


で、「ど理系」の人が
これから人生の建設の中にも出てくると思うけど
「一」というのを考えてみようっていうの。

1ですよ、1。
Oneです。unoです。
これまた難しいのきたなー


ど理系曰く
1は1じゃないって言ってましたね。
例えば、車が一台あります🚙と言った時
確かに青い車が一台あるけど、たくさんの部品から構成されてる。
エンジンとかハンドルとかドアとかタイヤとか色々ありますよね。
とすると、「一」とはなんぞ?ということになる。
私の家といっても
玄関、お風呂、台所、部屋たくさんありますよね。
「一」を構成するものがたくさんある。
体も、立ち上がろうすると「一つ」の動作に向けて全筋肉が動き、立ち上がることに意識も向く。

だから、普段我々が捉えている「一」と
よくみてみるとわかってくる「一」とは違うんじゃないだろうか?

と言ってきたんです。


私「……はぁ」

ど理系曰く
理系の自分でもこの「一」の定義に苦労してるのに
最近の地上では簡単に
全ては一つだとか
色々いうけどどうなんだろう。
その辺までわかってるんだろうか?
岡潔のように「かむかって」得た全ては一つなのだろうか
「一」の定義は終わったのだろうか

ということを言ってましたね。


私は
それは人によりますねと言いました。
「かむかって」得た人もいるでしょうし
なんとなくわかったふりして言ってる人もあるでしょう、と。

そしたら、ど理系が
あなたの「一」の定義を教えてくれというので
いや、「一」の定義ということを考えたことがないので言えない(そら理系的思考しないもん)といったら
でも、「一」になにか思いがあるんじゃないか?というので
「一」と言ったと同時に「多」も含んでることは体験したことがあります。
「多」と言った時「一」ののとをいってることを体験したこともあります。
それだけですといったら

それがわかってるなら
岡潔の本は楽しく読めるだろう
といって帰っていきました。


え?これなに?
テスト?
岡潔テスト?

「一」の話が出たら
「無明」テストもされそうなんだよね。
岡潔って「無明」をよく使ってたから。

今日はもう孫商店は閉店したので
無明の問答は明日でお願いします。


こんなテストされんの初めて。
プロティノス読んでもこんなのなかったし
理系脳ってわからんわー


しかし、確かに人生の建設ってこんな内容なのよね。
昔のプロティノスより
20世紀の人で
仏教徒であり
数学者の岡潔のがいいかなあって思ったのは
まず日本人だから感覚が近いってことと
理系脳は慣れてる(お父さんありがとう)ってこと。


それでまずは岡潔に。

岡潔と父とど理系の人に今日は感謝して寝ます。