みなさん、こんばんは(╹◡╹)
元気ですか?(╹◡╹)
僕がよく言う
神を信じようよ!(╹◡╹)(╹◡╹)
この言葉に迷う人もいるようです(╹◡╹)
きっとね(╹◡╹)
迷うってことは神を信じられないんじゃない(╹◡╹)
自分を信じられないんだよ(╹◡╹)
だから、神を信じられない(╹◡╹)
そうじゃないかな?(╹◡╹)
マヌは真善美をよく話しますけど
僕は信を推します(╹◡╹)
最近、日本では推し活が流行ってるようですから(╹◡╹)僕も真似して、信を推しますよ(╹◡╹)
結局、自分をどれだけ信じられるかじゃないだろうか(╹◡╹)
色々あるよ。
色々ある中、最後の最後
自分が信じられない(╹◡╹)
だから、神も信じられない(╹◡╹)
僕たちがいい話しても
自分を信じてないから、僕たちの話も信じられない(╹◡╹)
知識として得ていても信じるまでには至らない(╹◡╹)
信念という言葉がありますね(╹◡╹)
信じる心という念ですね。
その人をその人たらしめる信念というのがありますが
これがしっかりしてると
人として立派だし
アテナや理系の人がいう
自己成熟にもつながるんじゃないかな(╹◡╹)
時には信念が揺れてグラグラする時もあります(╹◡╹)
でも、そんな時は(╹◡╹)
信念がグラグラ揺れたけど、それはそれとして自分はやっぱり信じるぞ(╹◡╹)
これでよろし(╹◡╹)
一回揺れてしまったことを責めるんじゃなくて
この瞬間から信じることをしていけばいいだけです(╹◡╹)
巫女も言ってたけど、みなさんはそこで自分を物凄く責めるんです。
揺れてしまった自分をけちょんけちょんに貶します。
なんで?(╹◡╹)
別に、揺れたっていいんだよ(╹◡╹)
もっと自分に寛大になろうよ(╹◡╹)
そんなにね、なんでもかんでも完璧に
ひとつの失敗も自分に許さないなんてあり得ないです(╹◡╹)
僕だって間違えますよ(╹◡╹)
だから、なに?(╹◡╹)
それがどうした?(╹◡╹)
今から信じればいいじゃない(╹◡╹)
ハイ、終わり(╹◡╹)
スサ( ˇ෴ˇ )もよく話してます(╹◡╹)
気持ちを滞らせるからおなしくなる。
サラサラと川の流れのように気持ちを流していくと
水は澱まない。
人の心も同じだ( ˇ෴ˇ )
みえないものをどこまで信じることができるかというのが地上のみなさんの共通の使命です。
みなさん自身の肉体は見えるけれど、みなさんの魂は見えません。
みなさんの魂、本質をどれだけどこまで信じられるか
自分を信じた上でどこまで神を信じられるか
(╹◡╹)
絶対無限Ωのエネルギーと共に僕はいつも話をします(╹◡╹)