みなさん、こんばんは。
巫女が先日、自分の闇を話す話さないとぐだぐだ言ってましたけど
書くことになります。
なりますよ。
やるしかなくなります。
まあ、そういうことです。
このブログ読んでる人は
少なくとも闇について興味がある人でしょう。
でもね、面白い人もいて
闇が嫌いな人も読んでるんですよ。
それはもうね、みなさん凄いよ。
親の仇なんじゃないかってくらい闇を嫌ってます。
なのに、このブログ読むんですよ。それで文句いってる。
私は光の戦士だから
闇をぶっ潰すのが使命だ!
だから、闇のこと話すなんてとんでもない!
とか
闇を肯定するような奴はけしからん!とか
心の中が到底光より闇なんじゃないかってくらい騒がしい人が実際にいます。
しかし、勘のいいみなさんなら気がついてるでしょうけど
嫌いっていうのはそこにエネルギー注いでるってことなんですよ。
好きな反対は嫌いじゃなくて無関心って地上でもいうでしょ?
好きと嫌いはベクトルが違うだけでそこに費やすエネルギーがあります。
嫌いっていうのは、そこに存在を見つけてるんです。
存在を認めてるんです。
それで嫌いだ嫌いだっていってね
自らの過去の中にせっせと毒作って食らってね
面白いことしてる人がいます。
地上においての闇は
ダークワーカー始め色んな人が話してますけど
僕なんかからみると
そうだねー
いろんなことに例えられるけれど、やっぱり蓮の花の例えが一番美しいんじゃないだろうか。
蓮の花はとても美しいですけど、根っこは泥の中で汚い。
人の人生も同じじゃないか
憎んだり
妬んだり
そしったり
いろいろ美しくない言動があるけど
それを養分としてあのハスの花のように人生の花を咲かせることができる
諸君、悟れよとゴータマは言いました。
これはお経の中にあります。
実際本当にゴータマは語りました。
煩悩即菩提だよということですね。
だから、ゴータマも光だけじゃなくて闇もあるけど
闇は美しいものに変換できるんだよ
それが人生の醍醐味なんだよって教えてくれたんです。
このブログにわざわざきて、闇を嫌って潰そうと憤慨してるならば
あのゴータマでさえ
闇を認め受け入れたのだから、あなたもゴータマに習ってみてはどうだろうか。