そのときダフネはそんな格好で何度も芝生に墜落した
崖の上の家の芝生はとてもよく手入れされていたから
それが柔らかなクッションになってダフネを守ったけれど
それでもダフネが堕ちるたびに
細い草の葉がたくさんの引っかき傷をダフネの身体に作る
僕は耐えきれずに墜落した可哀想な蜻蛉を上から抑えつけ
もう飛べないように抱きしめた
その後ダフネはかなりの間不機嫌そうになり
僕の手をいつもすり抜けていくようになったけれど
それよりも重大だったのはダフネが今のダフネ2のように
高い熱を出したということだった
まるで抑え込まれて果たせなかった蜻蛉飛行が
身体の中でブンブンと唸って熱を出しているようだと
あのとき僕は思ったものだ
今のダフネ2の発熱は似たような理由からなのか
Mに言われて2の肩に触って僕も驚いた
それはとても風邪やなんかの熱ではなかった
僕自身があの出来事で負傷し熱があったからわかるのだけれど
2の熱は風邪なんかよりもっと重症の何かの熱だと直感する
「Gさん」と僕は運転席の後ろから声をかける
「指定された場所に行く前に
あの脳外科の先生のいるところに行けないですか
普通のショックとかで出る熱じゃない気が」
(「普通のショック」と僕は言いながら矛盾だなと思った)
「いえ その必要はありません」とG
「でも熱がかなりひどいんですよ」と僕
「それは了解しました
ドクターには花屋の方に来てもらいましょう」
そう言って運転席のすぐ横の無線マイクを左手でとりあげると
その手でマイクがかかっていたパネルのテンキーを
素早く何度か押してから一二秒だけ待って
「早めに合流お願いします」とだけ言った
無線の相手からは返事は何も帰って来なかったがGは
「これでいいでしょう」と言う
まるでコンピュータかロボット相手に指示を出しているようだった
もちろん相手はそういう機械ではない
しかし脳外科医を初めとしてあそこのスタッフは機械のように
訓練されていた
だからおそらくは留守録みたいなもので十分なのだ
案の定5秒ほどでスピーカーからピポッという音がして
Gが更にアクセルを踏み込んだのがわかった
合流?
じゃあ最初からどこかで外科医とは合流する予定だったのか
しかし崖の上の家を出る時点では
2はふらついてはいたけれど誰も熱には気づいていなかった
それでもあの脳外科医との合流は予定されていたのだとすると
本当に僕が知らないような何かがあって
それに基づいて事態が動いている
そのことをまたしても
これでもかとばかり感じさせられた
「M いつもこういう調子なんだ
僕にもわかっていないことがありすぎる」
そうMに向かって言うと
「Kはわかってても気づかないようにしてることが多いからね」
「いや そんなことは とにかくこの場合はだね」
「いいわ それはいい 説明なんかしてたら
この何だか理解できない状態にどんどん立ち遅れる
いいから するべきことがあったら言って
できることはする」とM
言っていることは冷静に思えたけれど
両腕は2の身体を支えるので精一杯に見える
Mはお嬢だが十分トレーニングされた身体の持ち主だった
2の華奢な身体が支えられないはずはない
だから精一杯に見えるのはもっと他の要因が
Mをそうさせているのだろうと僕は推測する
でも何がだろう
「K
この子 重い」とMが言ったとき
2の上体をMは支え切れなくなりかけているように見えた
「重いって
だってダフネと同じくらいなんだよ
Mはダフネを抱きかかえられたよな」
「そうなんだけど 位置のせいかな
重いのよ」
そう言われて僕は
前に倒れかかってい2のる身体の前に腕を回して2を
抱え起こそうとする
確かに信じられないほど重い
どういうことだ
さっき崖の上でぐらついたときとは比べ物にならないほど
重く感じられるのだ
しかも2の身体は柔らかさを失って金属のように硬かった
「硬直してる?」
「ええ そうかも そういう感じがする」
僕とMがそういったとき運転席からGが少しだけ振り向き
2の顔を見やってから言った
「急ぎましょう
急がないと行きつけなくなるかもしれない」
そういうが早いかハンドルについた何かのボタンを押すと
サイレンが鳴り始めアクセルが踏み込まれた音がして
後部座席の三人はシートに押し付けられたようになった
「やっぱり特殊車両?」
そうMが言うとGが
「つかまれるところにつかまってください
ベルトだけでは固定が不十分になる」
そしてそれが事実であることは
ほんの1秒も経たないうちに明らかになった
2はMと僕の間に挟まれた形になり
支える力は少なくて済むようになる
スピードが2をシートに押し付けている
けれど硬直はますますひどくなり
車がカーブを切ると腰から上がぐらんと揺れた
エンジンの回転が高くなっていることがよくわかる
けれどエンジン音はまるで厚いガラスにでも密閉されているかのように
奇妙に静かなままだ
崖の上にやってきてから
というよりは雨の日にダフネに出会ってから
すべてが奇妙だった
奇妙だったが僕はそれを受け入れたし
そういう奇妙さが次第に普通になってもいき
その結果Mをも巻き込んできたのだったけれど
奇妙なことが次々とあったにもかかわらず
そして
束の間のあいだであったにせよ
崖の上の家は
ダフネとMと僕にとっては
この上ないスイート・ホームだったのかもしれない
それは
あのひとの力も当然あってのことだったけれど
僕たちもそれなりに生命を輝かしていたはずだった
その甘い生活は今
二度と戻らない坂をとてつもない速度で
転げ落ち始めたのだろうか
ダフネの失踪と2の出現を契機にして
いや
それはまだ僕たちの腕の中にあるはずだ
これは人間てそういうものなのかと後で自問したことでもあるのだけれど
今更ながら
僕は崖の上の出来事すべてが夢のようなもの
あるいは幻覚めいた出来事なのであって
何もかも実際には起こらなかったのではないか
そう考えることだってできる気がした
それでもなお出来事のすべてが現実であると言うのなら
もはや理屈で考えることは何もない
考える意味はないということは
ただその刹那刹那に反射的に対応する以外に方法はないということだった
そうならばもう
あれこれ推測しきれないことばかりを考えていてもしょうがない
あのひとの口癖のように
ケ・セラ・セラ
なるようにしかならないと思い定めよう
「ありがとう M」
僕がMにそれだけ言うとMは
前を見たまま頷いて
「そうしたくて帰ってきたのよ」
そう言って
手を僕の方に伸ばし僕の手首をつかんで
ぐいっと引っ張った
僕がつかみ返したので僕たちの
つながった腕は2を前からもう一本のシートベルトのように支えている
「ケ・セラ・セラって思ってたでしょ」とM
「ああ」と僕
それにしても
そのケ・セラ・セラは刃の切っ先の上で踊るような
極めつけのケ・セラ・セラだったのだ