雲を見ていた | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある






 戻ってきたユニィオにはキッチンの奥の土間に住処が与えられた
 もちろん家の中そこら中を駆けまわることをあのひとは禁止しなかった
 綺麗に磨き上げられたような板の間は傷つくかもしれないが

 眠いと言ったダフネ2はすぐに二階に上がっていった
 ダフネもある意味では規則正しいところがあったけれど
 2はもっと規則正しい生活をしていた
 いつも11時にはベッドに入る
 そして朝は7時半きっかりに起き上がる
 目覚まし時計はおろか腕時計ももっていなかったけれど
 彼女自身が時計のようだった

 ところが翌朝になっても彼女はまだ起きてこなかった
 僕も特に起こそうとはしなかったけれど
 ベッドの傍まで行って息をしていることだけは確かめた
 人間そんなに忽然とは死にはしないかもしれないけれど
 僕には人というものが脆いものだと思えていたし
 それどころかダフネ2が人間なのかどうかさえ何処かで疑っていた
 けれど昨夜のようなことが起きた後で
 規則正しい生活が損なわれること自体は人間的なことなのだと思う

 午後1時のダフネ2は起きて一階に降りてきた
 あのひとと僕は
 いや少なくとも僕は頭が整理できずにぼんやりとしていた

 夢うつつという言葉があるけれど
 そしてうつつは現と書いて夢の反対のリアルなのだが
 うつつも夢うつつの幻想の一部だと理解している人もいる
 言葉ですらそうなのだ
 実人生で何が夢で何が現かわかったものではないなと

 しかしそれでも僕は気づかざるを得なかった
 2はいつもより5時間半遅く寝た
 そしていつもより5時間半遅く起きてきた
 それなりに時計のような正確さで

 遅い昼ご飯をきちんと食べた後で彼女は庭を歩き回っていた
 ユニィオがときどき足に絡まって嬉しそうに鳴いていた
 それが嬉しかったのか
 それともまだハクを探していたものか
 彼女はそうやって数時間も庭を歩き続けた

 ときどきフェンスに寄り掛かって海を眺めていた
 その姿はダフネのように見えた
 さほど長くない髪の風になびくなびき方がそっくりだった
 当たり前のことなのかもしれないが
 髪の質まで同じなのに違う二人なのかと

 やがて早い夕暮れがやってきた
 陽は西に傾いて岬の彼方に消え去る前に海を赤く染めていた
 その赤に染まらなかった大きな雲が空に浮かんでいた

 2はそれを何も言わず
 身じろぎもせずに見ていた
 雲は風に流されるでもなく
 しかし随分と奇妙な形に折れ曲がって
 まるで龍か何かがぼやけた存在の痕跡を残したかのように
 つまり龍の抜け殻が雲になって浮いているようだった

 ユニィオが足元を何度かくるくると回っていたが
 ダフネ2は気にとめるふうでもなく
 嫌がりもせずされるがままにしているようだった

 僕はふとその有り様にどこか諦めめいたものを感じたのだと思う

 そばまで言って声を掛けた
 「雲を?」と
 すると2はこちらを少し見上げるようにしながら言った
 ”Nothing”
 「え でも雲の方を見ていたよね?」と僕
 「そう
  でも雲はnothing」

 それがどういう意味か僕は理解できずに言葉に詰まる
 「雲はnothingって?」
 「雲は幻みたいなものだっていうこと」
 「幻?」
 「そう ただの水」
 「それはそうだけど」
 「そうなの!」
 少し語尾が強いなと思う

 「聞いていいかな」
 「いいけど」
 「水は水だけど雲はいろんな形になって面白いだろ
  そんなふうに言わなくたって」
 2はしばらく雲から目を逸らして下を向いていたが
 顔を上げて僕が聞こうとしていたが聞かなかった質問に答えて言った

 「私たちは姉妹なの」

 晩秋の夕暮れの少し冷たい風が
 海から崖を駆け上がってきてまた2の髪を揺らした
 2の眼差しに戸惑いは感じられなかった

 「姉妹のようなもの
  と言ったほうが正確?
  いえ同じこと」

 僕が何も聞き返さないのに2はそう続けた

 「いいわ
  私はダフネではない
  でも
  だからこそダフネなの
  説明の余地はない」

 何故なのかわからなかったが
 その言い方に僕は目頭が熱くなって息が詰まった

 皆目何が言いたいのかは
 何を意味していて
 この奇妙な状況がどういうことなのかはわからなかったけれど
 僕はダフネ2のその言い方に
 奇妙な形で感極まってしまったのだった

 強さか諦めめいた感情なのか
 それとも決意とでも言うべきものだったのかわからなかったけれど
 それは何処か確実に悲しいことのように感じられたからだった