ことばにぼくを | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある

 
 ニュアンスという言葉でごまかして話そうかな
 というか
 なかなか味わい深い言葉なのだけどね ニュアンス
 広辞苑にはこんな説明がある
 色・音・調子・意味・感情などの微細な差異 nuance フランス語

 

 音だけでもニュアンスはある
 「はな」というおとは「はんなり」や「は」からの音の連想で「ほころぶ」や
 いろいろな言葉の音を思い出させる
 もしかしたらフランス人なら「なな」あるいは「7」を連想させるのかもしれない

 形もまた
 「躾」日本人が作った漢字らしいが「身」が「美しい」だけでなく
 偏と旁が背中合わせになって背筋を伸ばしているような気もしないではない

 形の連想はおそらく象形文字使用言語において著しいのだろうが
 アルファベットだって例えば オー O は丸く開けた口のようで
 しかも それは オー という発音をするときの口の形なのだ

 漢詩や欧米の詩では頭韻とか脚韻とかがあって
 響きを揃える効果だけでなく
 その音の響きが連想させるニュアンスを隠し味にする

 こうやって音と形はいろいろな方式で響き合ってしまうのだ
 これは敢えてやっているというよりも
 そもそも言葉ができたときから続いてきたことだ
 「文字ができたときから」ではないのか
 と言う人も居るかもしれないが
 言葉の音はきっと何かを見たときの感動から始まったのであり
 從って文字という強力な道具のできる前から
 響きあいは在ったはずなのだ


 さて
 ならば

 言葉の意味はどうなのか
 音や形が響きあうのであるならば
 意味もごく当然のこととして響きあうはずだ

 意味について
 特に意図してではなかったが
 かたことのようなブログの最初から僕は「意味」にこだわっていた
 今ここで意味論などという宇宙のような迷宮に立ち入ることはせず
 ただ簡単な意味のネットワークということを考えよう

 例えば
 花ー茎ー葉
 花ー蝶ー蜜
 花ー色ー虹
 花ー蕾ー春
 花ー種ー世代ー繁栄
 花ー匂いー甘いー恋
 花ー花びらー形ー切り紙細工
 花ー枯れるー時ー時間

 もちろんこういうのだってある
 花ー鼻ー変換ミスー見逃すー失認ーバカヤロー 〔笑)

 最初の例

  花ー茎ー葉 はその後に ー露ー雨ー濡れるー冷たさー雨上がり を付けて
  花ー茎ー葉ー露ー雨ー濡れるー冷たさー雨上がり

 と長く長く繋いでいくことができる
 ある意味これは連句連歌の発想点だ

 上の「花」の例では
 さらに

  花ー種ー世代ー繁栄
  花ー匂いー甘いー恋

 のふたつの流れが例えば

  花ー種ー世代ー繁栄ー子孫
  花ー匂いー甘いー恋ー結婚ー赤ちゃんー子孫
 
 というふうにそれぞれつながっていく内に同じ言葉にたどり着いたり
 そこからまた違う方向にそれぞれの繋がりが続いていったりする

 そしてそれは「花」という言葉を中心にした
 ネットワークであると考えられる

 意味で連想されて出来上がったネットワークだから
 意味ネットワーク

 この意味ネットワークにじつは最初に(そして前のページで)触れてきた
 音と形の連想が別次元のネットワーク
 つまり 音韻ネットワークと形態ネットワーク として
 意味ネットワークに立体的にリンクする

 これが総合的に「花(はな)」という語のニュアンスを決定するのだ

 だから僕たちが「花」という言葉を見聞きしたとき
 さまざまな花の咲く庭園や春風や夏の晴天やその他のものが広がることになる

 でも全てが浮かぶわけではなく
 ネットワークの遠い所にあるものはなかなか連想されず
 近い所にあるものはすぐに思い浮かぶ

 もちろん
 この「遠近」の関係は例えば上の例で言えば
 「子孫」という接点を経由して
 回り道して連想されたりもするだろう







 「花」だけでも上のようなことが起きるのだけれど
 それだけではなくて
 今度は
 「花と風」と書いたらどうだろう

 「花」が連想させるネットワークと
 「風」が連想させるネットワークが
 重なったり
 あるいは垂直に交わったりして
 もっと連想冴えるネットワーク空間は広くなり
 そして複雑に鳴り響き出すだろう

 そして思いもかけなかったような
 接点や交点が生じて
 そこからまた語のニュアンスが変わってくる


 この音韻形態意味ネットワークは
 少なくとも
 その言語を共有するみんなのヴァージョンと
 その言語を使いながら生きている一人ひとりのヴァージョンがあるはずだ

 人と人がコミュニケーションするときには
 みんなヴァージョンである程度の疎通ができる
 それ以上の疎通なら
 相手の持っているヴァージョンをある程度は経験して知っていなければならない
 これは僕たちが日頃経験することでもある
 「ああ そういう<意味>で言っていたのか」みたいな形でね

 そして例えばある作家の「言葉遣い」が好きだという場合
 人はその作家の音韻形態意味ネットワークを好きになったのだ

 もちろん実は他にも構文ネットワークというものも考えなくてはいけないのだが・・・
 福祉や形容詞を多用する作家 体言止めが好きな作家などなど


 そしてこのみんなヴァージョンも個人ヴァージョンも
 少しずつ時には急に大きく変わっていくだろう

 キーボードが鍵盤だった頃
 僕は音楽だったが
 コンピュータができたとき
 僕はプログラムになった  みたいにね

 恋が甘酸っぱいレモンだったとき
 僕はキリギリスみたいに飛び回っていたけれど
 恋が苦めの珈琲になったとき 
 僕は日陰のカフェの椅子だった  みたいにね

 こうした変化は
 みな経験によって生じると考える以外にはない

 もともと個人ヴァージョンの
 音韻形態意味ネットワークはその個人が生きてきた歴史が刻み込まれたものなのだ

 だから
 生きている限りこのネットワークは変遷する


 こういう音韻形態意味ネットワークは繊細で
 詩人や一部の人たちの超能力なのかというと
 実はこういうネットワークの発想になったときから
 統計化数量化されてきていて
 新聞みたいな公式メディアでのネットワークとか
 ある作家のある作品のネットワークとかが
 実際に測定され作り上げられてきたりした
 そしてそのなかで例えば「花」「蝶」の音韻形態意味距離はどのくらいかが
 計算できるようにさえなったのだ

 それは多次元座標の空間の中に美しい花のように浮かんで描かれる

 しかしそれは実に膨大なネットワークであり
 またそのネットワークのデータも膨大な人の印象を調査して作ったので
 そうおいそれと「誰々の今日のネットワークを表示して!」とは行かない

 しかも例えば僕のネットワークは
 基本的に僕だけが知っている(おそらくほとんどは意識しないで知っている)か
 こうやって僕が書いているものを
 非常に細かな眼と耳で読み続けている人にしかわからないことになるだろう

 




     「音韻形態意味ネットワーク」は長すぎるので
     「言葉ネットワーク」と言っても良さそうだけれど
     そうするとそれぞれが色薄くなるので敢えて長く書いている


     それから僕が言葉・語の重箱の隅をつついて遊ぶのは
     こんなネットワークをいつも噛み締めているからなのだ
     実は意味というものはもっと厄介な
     哲学的というか禅問答みたいな問題をも含んでいる
     もしライオンが日本語を話せたとしたら
     「ライオン」という語はどういう意味になるのかな みたいな話とか
     まあ それは またいずれ