worship 生きる形のままに | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある

  
 今からちょっと前のことですが
 マグノリアさんの『偶然を愛して』を読みました
 そのタイトルは

 僕の『花の砦』に寄せられたマグノリアさんのコメントに
 お応えするときに僕がリプライのタイトルにしたものと同じでした

 マグノリアさんはときどき「なう」とかでも
 誰かの記事を説明ないままにひょいと取り上げるのがお好きです
 そしてそうやって取り上げていただくとすごく嬉しい

 花の写真を
 花の並びを
 花を

 褒めてくださるコメントでした
 僕は未だに大したことだとは認識できずにいるのですが
 花の美しさ微塵も疑ってはいません

 投げ入れた花は花器を動かしただけで幾らでも動いてしまい
 家の中から庭の隅に出しただけで
 あるいは傾き あるいは野放図に広がってしまいます
 しかも乾いた紫陽花はとても脆くて
 机の上の紫陽花の花は花器を移動したときに
 揺れて あるいは誰かさんにちょっと触って
 その結果いとも簡単に崩れ落ちたものでした

 一枚目の写真の左下に鬼灯(ほおずき)
 右下に紫陽花の花びらが写っているのが見えるでしょうか
 
 こんなに美しいものがなぜ落ちるのだろう
 落ちればもう花としては飾られることもなく捨てられる
 耐え難いことなのです そんなことは


 マグノリアさんは
 身近な方が花を綺麗に生けるのを見て
 そしてそれは「針金を使わない」以上のことがあると思い
 「この人は花を愛している」と気づいたと書いておいでなのですが
 如何にも如何にもマグノリアさんらしい

 それを読んで僕が思ったこと
 それほど多くのことではないのですが
 それを書いておきたい
 どうしても書いておきたいと感じたのです


 まず僕が花を愛しているかどうかはわかりません
 でも徒らに花が踏みにじられるのは胸を裂かれる思いがします
 それは花だけではなくて木も同じです

 僕の故郷の一つには緑に恵まれた丘や林があったのですが
 ある日 犬の散歩に出かけて坂を昇り
 林や泉 田や川のある小さな谷あいに向かう
 それもまた小さくて峠とも呼べない
 登り坂の終点を超えたとき
 何台もの鉄の牛たちが
 黙々と緑を食い尽くしているのを見たのでした

 ローム層の赤い肌が一面に広がり泉も消えていました
 それは僕のトラウマの一つになっているのだと思うのです
 (僕はフロイトの考え方が好きでないので
  トラウマとかいう言葉も好きではありませんが)

 そのためか『木を植えた男』を見たときには
 ほんとうに年甲斐もなく震えが止まりませんでした

 鉄の牛の姿がトラウマになっているかはどうでもいいことです
 なぜって僕はその「トラウマ」を解消するどころか
 大きく大きく育てていきたいさえと思っているからです


 話が逸れそうなので

 僕は道端の大きな木をみると立ち止まって
 その枝ぶりを眺めていることがよくあります
 チューリングというコンピューターの数学的原型を作った天才の
 もうひとつの仕事は枝の分岐の
 葉脈の分岐のありさまを
 数学にすることでした
 それに憧れたこともあるのかもしれません
 本当に僕は木が美しいと思っています

 僕はこれが愛かどうかよくわかりませんが

 worship という英語の単語がありますが
 「崇拝する」というと
 ひたすら頭を下げて祈祷するイメージで好きではないので
 でも英語のworshipの響きは好きで
 訳は「賞賛」か「賞賛以上」だと決めているのです

 そして僕はよく色々なものを(ことも)worshipしている
 らしいのです
 それがきっと僕なりの形なのでしょう

 好きとか嫌いとか言うこともなく
 ただ呆然と見とれ耳を奪われている
 そしてそれを失いたくない
 でも僕が失いたくないのではなくて
 この世から失いたくない
 そういう感覚なのです

 花が好きな方たちはきっと
 同じように感じておられるのではないでしょうか
 好きとか嫌いとか
 愛しているとかいないとか
 もうそんな言葉も感じ方もなく

 そしてそういうところから来るものは
 例えばそれが花ならば

 その花らしく
 その花が今まで生きてきたように
 これからも生きていけるように
 その生きる形のままにさせてやりたいと

 水あげを促すなら
 ハサミを入れあるいは剣山に刺したとしても
 それほど痛みは感じないなと思うのですが
 花を矯めるような生花は決して好きになれません

 投げ入れて
 あるいは水に浮かべて


 その生きる形のままに
 それが在る形
 在った形のままに


 でも僕はこれがとても難しいことだと思っています
 野に在るものを切り取ったときから
 花は不自由になっているでしょう

 でも野に咲き続けたとしても枯れる日が
 折れる日は来るのですから
 切ることを赦してもらって
 赦してもらった以上は可能な限り
 いえ できるなら野に在る以上に


 その生きる形のままに
 それが在る形
 在った形のままに


 そう思うのです

 実はあの紫陽花は不要になったので捨てられるはずのものでした
 でも持ち主は捨てるに捨てられず
 使ってくれる人にと


 花の色
 移ろいながらもあれほどに美しく在る花の姿を
 羨み妬みさえするのですが
 だからといって
 花を薙ぎ倒し意味もなく切り刻むことへの怒りのほうが
 もっと強い

 そのままに在ってほしいと思う
 思わずにはいられない

 それはおそらくは最も強い僕の「欲望」なのだと思うのです


 今夜は大好きなオリオンのベルトから
 星が流れてくるのを楽しみにして
 赤道儀を用意して待っていたのですが
 あいにくの厚い雲で
 地上の星しか見えません

 それもまた
 在るように

 今夜は見えなくてもいつか見える日があるだろう
 いや この時間にも
 誰かが何処かで流れ星を見ているはずなのです

 なんだか『アナと雪の女王』の歌を思い出してしまいました

 でもこんな
 ちょっとマジになりすぎて恥ずかしくさえある話も
 星が流れて来ない退屈な夜には
 素直に書いてしまえるのでした



 ありがとう マグノリアさん 皆さん


 聖母マリアが置かれているのは受胎告知
 ガブリエルがマリアのもとを訪れて告げたとき
 マリアが言った言葉を思い浮かべられたからだったのでしょうか

 かくあれかし と

 それとも葉とも見える影に何かの意味があるのでしょうか







 何の変哲もない おそらくはスマートフォンのカメラで取った写真なのですが
 大切にしている写真の一枚です
 言うまでもなく銀杏(いちょう)の実なのですが撮ったとき僕は不覚にも
 ギンナンと呼ばれる僕の大好物がこれだとは知らなかったのでした

 でも言いようもなく美しく愛らしく思えてずっと仕事机の上に

 後にギンナンだと知ったとき

 すぐにはそれだとはわからないけれど
 いつかそうだったのだと知ることが

 そしてそのときにはそれだとはわからなかったのに
 なぜか気にしていたと後から気づくということが

 人生にはきっと山のようにあるのだと思ったものでした