けれどその歌は陰鬱で戸惑っていた
しかも最初のいくつかの音は
聞き逃されそうなほど唐突に始まり
聞き手などどうでもいい
そんな感じがした
でも強い低音が響いたから気づく人は気づいたろう
でもその後は
柔らかな躊躇いの繰り返し
嵐と陶酔がせめぎあい
悩ましげに音が繰り返される
あのひとが「ほう」と小さく声を立てた
しかも演奏中だというのに
わざわざ僕に向き直ってこう聞いたのだ
「いつも彼はこうなのかね」と
僕は『こう』がどういう意味か分からなかったので
首をかしげて見せた
あのひとは小さく「あんな姿勢で?」と言う
ああそのことか
僕は頷く
あのひとが聞いた意味はすぐにわかった
Aさんはこんな激しい出だしでも姿勢をほとんど変えない
というか弾きながらかすかに身体をゆらすことはあっても
いつもほとんどまっすぐに背を伸ばし
いわば「正座」のままで弾くからだ
感情を腕と指だけに集中する弾き方
それほど大男ではないAさんがそうやって弾くのだから
きっと腕は物凄い力なのだと僕は何度も思ったものだ
今
この速さ
この強さ
そしてこの弱さですら
その弱められた音はどこか甘い匂いがした
本当はその甘い感情がすべてなのだろうか
そうならば
二楽章めは奇妙に速い
そう感じたのは
Aさんがほとんど一と二を
休みを入れずつなげて彈いたからかもしれない
しかも速いだけでなく強い
かと思うと不意に静かに穏やかになる
この頃になるとフロアのお喋りは減り始めた
聞く耳のある人なら
尋常な弾き手でないことに気づくだろう
でもまだ会話に興じている人たちがいるので
ピアノの穏やかな深い息遣いが聞こえなくなる
それを見越したように時々音が駆け足する
僕は少し不安になってくる
Aさんは何かに怒っているのかもしれないと
客たちのお喋りなど全く意に介さず
自分の中だけで彈いているようにも思えた
ただこれはAさんという弾き手の
ピアノに対する基本的な接し方だったのかもしれない
伴奏者でないときはほとんどいつもこうだったのかもしれない
ただ今夜はそれが突然の弾き始めと相まって
ひどく強調されているように思えた
一方で僕はこの選曲にどこかで同意しかねていた
コム・ゴギャンがレスポワールを引き継ぐ会の最初に
こんな曲を弾くのかと
でもそれはもしかしたら僕が未踏に言ったことのせい
いやAさんももとからそう覚悟していたのだろうか
三番目の楽章に入ったとき
さすがにフロアからざわめきが起きた
『葬送』として多くの人が知る部分にさしかかったからだ
それまでは何だかわからなくても
これを聞けば知らない曲ではなくなる
それをこんな機会に
そういう驚きだったろう
と言っても
これは誰か特定の人を追悼するのではない
虐げられた故国の葬送なのだと言う人もいる
でも僕はそう思えたことがない
これは人ではない
自分の一部を葬る曲なのだ
そう感じてしまう理由は単純だった
オヤジが死んだ後
何週間も母が狂ったように弾き続けたからだ
僕は耳を塞いで枕を被りさえした
けれどそれは繰り返されながら日を追って
弾き方が変わっていった
指が折れそうなほどの激しさから
次第に
優しさの方へ
慰めの方へ
僕はその変化の中で理解した
オヤジは遠くにいてもずっと母の一部だったのだと
Aさんの弾き方は今までとは打って変わって
恐ろしくゆっくりになっていた
こんなにゆっくり彈いたら音が途切れて
曲を失ってしまいそうなほどに
スラーの魔術師の曲は
つながると見せて切り切ると見せてつながっている
しかもまた同じフレーズを繰り返す中でも変わっていってしまう
それは作曲家が演奏家でもあったからだ
Aさんはこの曲を書いた人ではないが
作り続ける人ではある
何だろう
それはレスポワールへの追悼なのだろうか
それとも「未踏のピアノ」への
名残惜しさ
別れへの抵抗?
それとも確認だろうか
僕は音を追いかけるのに苦労していた
だいたいショパンのソナタ2番は無茶苦茶だ
異なった感情のそれぞれが強すぎる
それが今のAさんの気持ちだと考えるのは容易いが
何か違う気がした
その異なる音の波の奥に
ひたひたと続いている聞こえてくる息は何を歌っているのだろう
そうだ
この定かならぬ言葉
息遣いであるとしか言いようのないものは
最後の楽章はもうほとんどそれまでの
出来事がはぐらかされ
軽々しく振り回されて
そのなかでいろいろなものが
虚しく散り消えていくようだった
葛藤も苦しみも悲しみも皆
消え去るものなのだ
そんなことをAさんが言っている気がした
弾き終えたAさんはほんの数秒足らずのあいだ
静止画みたいに動かなかったが
すぐに無造作に立ち上がり
礼をする気配もなくつかつかと店の奥に向かって歩き出した
これで終わり?
フロアの拍手は間に合わず
Aさんの姿が見えなくなってからやっと頂点に達した
驚きから今正気に返ったのだと言っているように聞こえる
僕も機を完全に逸してしまった
Aさんが消えるとぐっとまたざわめきが大きくなった
あのひとがピアノの方を見たまま言う
「ラフマニノフだなまるで」
もちろんそれはAさんの弾き方を言っているので
ラフマニノフの曲みたいだと言いたいのではない
僕にはAさんがバランスを崩しているのか
それとも実に見事に自分の感情まで弾き込めたのか
よく分からずにいた
でも
30分足らずの演奏にしては
僕はほとんど息もできないくらいに聴き
終わった時
聞く力が尽きたようにさえ感じていた
「色即是空か」とあのひとが言った
なんでそんな言葉が出てきたのか僕には見当もつかなかったが
なんというべきかわからないけれど
言うならば 甘い空虚 そんな終わり方だった
でも
空虚なのか
まだ揺れていたざわめきと拍手の残像に紛れ
多くの人には聞こえなかっただろうものを
そのとき僕は聞いた
いや知っていたからこそ聞こえたのだと言うべきだろう
聞いたもの
それは店の奥に居た未踏の悲鳴だったのだ
いや悲鳴というか驚いて飲み込んだ息が
喉をひゅうと鳴らしたような音だった
それが声だと
未踏の声だとわかるのは僕が未踏を知っていたからだ
僕はさっきのGさんみたいに
もうほとんど弾かれたように立ち上がっていたけれど
息を呑んで
すぐにまた座り直した
未踏が青いドレス姿で奥から現われ
足早に僕らの方に向かって来るのが見えたから