肉の歓び | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある

零さんの今夜のブログを読んで

しょうもないコメントをしてしまったお詫びに少し考えてみた

これをまたコメントしたら申し訳ないのでここでちょっとだけ追伸



 以前悪友のひとりと牛の脳が食べられる店に行った
 亭主の気分次第であったりなかったりするメニュの一つ
 他にも蜂の子だとか蛙だとか
 出てきた脳はごろりと結構大きくて
 さっと湯を通しただけのものだった
 どちらかと言えば雄のサザエの精巣の塊みたいで
 それを湯豆腐みたいに山葵(わさび)醤油で食べるのだという
 
 その友人
 脳を見るなり箸を薄く割り頭頂部を切り開いて
 「ううむさすがに牛だけのことはある
 噛む運動のための部位は特化して大きくなっているし
 この辺りの錐体細胞はそうとうでかいし軸索は・・・」
 とかなんとか

 ものの三十分もわけの分からない術語を乱発して
 視床下部辺りまで押し開き
 運動の解剖学と生理学を論じた挙句に
 ぺろりと独りで平らげてから言った言葉が
 「ふむ牛の気分にはなれないようだ」

 僕は自分の分の余り大きくない前頭葉を少しだけ
 食べてみて残りは偉大なるグルメ殿に進呈した
 今のところ二人とも
 あのクロイツフェルトなんたら病にはなっていないが
 頭のどこかに牛の角みたいなコブができているのかも
 ああヤコブ病だったっけ
 そうそうプリオン
 あの生き物だか化学物質だかわからない奴


 ところで
 そういう目で自分の胸の回りを巡っている血管の走行を
 見てしまうのってどういう感じなのだろう

 いかに鏡を通してだとは言え
 静脈の青さが見えるほど白く透明な肌の向こうには
 血が流れ肉があり収縮と弛緩を繰り返し
 栄養の吸収と老廃物の排出という
 基本的な代謝を持つ「からだ」がある

 おそらくそれはもうほとんど内臓と呼ぶべきもので
 ましてや乳房の奥ともなればまたそれなりの意味もある
 男が同じことをして考えることとは違っているはずで


 いやそもそも

 解剖する目を通さなくても女と男は別の生き物だ
 男が女の乳房の奥を見るときと 
 女が女の乳房の奥を見るときは
 見えてくるものがぜんぜん違うだろうと
 その違いを前提にした上で

 自分で自分の乳房の奥を眺めやる
 しかも解剖学の目で

 そこまで行ったらもう感情なんてなくなるのだろうか
 それともやっとそこにたどり着いて初めて
 ほんとうに底知れない歓びが湧き上がるのだろうか
 「ああ 私は生きている」
 のかそれとも
 「ああ 私は女」
 なのか僕には想像がつかないけれど
 もし後者なら
 それはなかなかのものなのだと思う
 いのちの在り方もきっと女と男では違うのだ

 男の場合は自分の胸を見て「俺は男だ」なんて普通なら考えない
 考えるとしたらたぶん別の物を見て考えるのだろうけど
 それはともかく


 それともそんなことなどとうに超えて
 ただ「生きている」と


 女として生きる肉の歓びを
 ひとり風呂の中で確かめる

 静かな目で
 それとも
 燃えるような熱い目でなのだろうか
 それがなんとなく
 気になった




      いえ答えを期待しているわけではありません
      それよりもこんなことを考える切っ掛けを頂いた
      御礼まで
      (お詫び同様「なってない」かもしれないけれど)