僕は詩を書きたくてここにいるわけではない
はずみでモドキを書いてはいるけれど
小説は書いてみたいけど時間がない
それにこいつは書くことに行き詰まるのではなくて
感情的に困憊する類のものだなと予想する
なんで分かち書きするのかというと
それのほうが詩っぽいからではない
実は僕はものすごく長い文を書く
論文なんかでも一文が数行にわたることもある
となるとそんなもの
ここで読んでくれる人がいるなんてとても思えないし
ちょっと暇を見つけて書くにしては重すぎる
だいたい僕はお喋りなときと
何も言いたくないときの落差がひどい
コンスタントに書くなんてとてもできそうもない
それにダラダラ文ではどこで語が切れているのか
僕が息をしているかが
すごくわかりにくくなり
結果として何処が重要なのか
後は読んでくれる人たちの努力にすがることだけになりそうで
あまり気持ちがよくないのだ
それにそれでは人の気持ちは
いや僕の気持ちも動かない
僕が分かち書きで句読点を余り使いたがらないのも
それに関係があるかな
そうしたところで根本は変わらないかもしれないけどね
ところで何処で切れるかと言えば
「ぱんつくれ」が「パンツくれ」なのか「パン作れ」なのか
余りに陳腐な例だけれど
お笑いのネタのつもりではないので
そこで「はあ?」と言って口を開けてるあなた
口を閉じて
つまり音では「ぱんつくれ」
もちろん前者なら「パンツ」で小さなブレス
後者なら「パン」で
しかし今ちょっと工夫して
(しなくてもいいや
最近ならコンピュータがすぐやってくれる)
正確に音の間隔を同じにして
「ぱ・ん・つ・く・れ」とやっても
聞く人によっては前者になったり後者になったりする
というのは心理学なのかな
つまり感覚する側に決定する権限がある
全部ではないにしてもね
それはともかく
あなたは今これを目で見てますか?
当たり前だ?
さあ棒読み機械に読ませてる人もいるか
ということを言いたいのではなく
首を動かしていないかと聞きたいのだけれど
え
何でだ?
つまり目だけで見てるわけじゃない
首も動かせば
時には身を乗り出したり
顔を傾けたりしながら見るだろう
と言いたかったわけで
さてそこでだ
見るというのは感覚で
つまりは入力で
首を振るのは運動で
つまりは出力で
つい別々のものだと思いたくなるけれど
実にこの入出力は巧みに入り混じり
補いあって機能している
別のプロセスだなんてとんでもない
入力があって変換され出力される
そういう一直線発想はもう生き物にもロボットにも当てはまらない
でね
エスプリとマチエール
マチエールと聞くと絵画を思い浮かべる人も多いだろうね
質感というか
もっと根本的には技術というか
でももともとの意味は「物」
「精神」であるエスプリと一対の
反対のようで反対とも言いにくい概念
例えば僕らが何かを作るとき
それは絵でも彫刻でも
粘土細工でも詩でも散文でも
料理でも
心に何事か表わしたいことがあって
考えて
つまりエスプリだ
それから方法が技術が産み出され
それでもって何かが作られる
と多くの人は思うだろう
でもこれは
誰の目にも明らかなことだろうけれど
全くの空論だと思うのだ
むしろ手先の動きの一つ一つが
言葉の選択と配置の一つ一つが
材料に加える力と反発力が
せめぎ合って生まれてくるもの
つまりはマチエール
こいつがすべてを決めてしまうのだ
そしてマチエールは材質でも物でもなくて
まさに本質的なものなのだと
僕は考える
強いて言えば
エスプリのほうがマチエールによって作られる
描く対象を理解することすら
僕らの描き方によって左右されるのだ
描くためにはよおく見なさいと言うことは易い
よおく見るためには描かなくてはならない
描かなくては描くものが見えてこないのだ
奇妙なことだけど
エスプリとマチエール
いやどっちもどっちで
殴りあって作り合う関係なのだろうと
つまり思想はそういう戦いの
殴り合いの
あるいはくすぐり合いや引っ張り合い
突っ込んだり引き千切ったりする
その中で生まれるものなんだと思っている
で
結論として言うと
こういうお馬鹿な書き方は
けっきょくお馬鹿な思想にしかならない
まあ「ぱんつくれ」と余り違わないので
おしまいにする
はははのは