まだ早い時間からピアニストは彈いていた
誰も聴衆の居ない街の公会堂のがらんとした空間で
舞台の袖で長いあいだ埃をかぶっていた楽器を
発見した考古学者みたいに慎重すぎるほどの手つきで開き
舞台にも客席にも明かりはなかった
天窓から入り込む光が舞台の上手の一部分だけを
ぼんやりと照らしていたが光は弱かった
おずおずとさえ見えた手が次第に勢いをましていく
それは季節の葬送のように重かったが
そのなかに堪(こら)えきれないように
甘い陶酔がこぼれては抑えこまれていった
まるで失った長い年月を想起し続けるかのように
けれどそれは涙ではなく彼は泣いてもいなかった
もちろん怒りは微塵もなくて
いわばそれは彼の生き方のこの歳になって湧き上がる
静かな葛藤のようなものだった
その葛藤の片割れは甘い花びらの匂いのする
もう一方がそれを鎮静させようとする秋風で
弾き手はどちらが勝利を収めるのかわからぬという顔つきで
葛藤の二重奏を弾き続けている
ほんの三十分も前に上手の明るみにすっと現れた
目の覚めるように青いドレスを着た歌い手が言ったのだ
「もう行くわ でもそれは短いソナチネの間だけ
夜は戻って朝まであなたのピアノで歌いたい」
ピアニストはその言葉を信じたいと思っていた
いやまちがいなく確信していたのだが
思いはそんなに簡単にほぐれるような糸玉でなく
さまざまな思いと出来事が音と音の間に往き来した
自分の思いを深々とこの曲に注ぎ込み
葛藤の端々までを描き分けようと指を弾ませる
どんなことがあっても弾き損じてはならなかった
この曲の完成が彼自身の生き方であると決めていたからだ
やがて昼過ぎに彼は弾き終えて沈黙した
長い沈黙が舞台と客席とそれから天井の頂きまでを覆っていた
もはやできることはじっとこのまま遠い鳥の囀りだけを聞いて待つことか
歌い手の置いていった淡い色の野花を手にとって出て行くことだけだった