午後には予告どおりの痛みがやってきたけれど
耐えられないほどのものではなかった
それでも
生きている証拠だと自分に何度か言い聞かせるほどには痛んだ
結局僕たちは更に数日ほど
この病院らしいところに留め置かれることになった
それは痛みのせいではなく
医師が奇妙な発見をしたせいだ
「意識を失ったのはアルコールのせいもあるのかと
それにしても根性のない奴だと思っていたが
すまなかったな
君は毒を盛られたらしい」
「毒ですって?ワインか料理にですか」
「いや『盛られた』ってのはまずい言い方だったかな
『毒』というのも正確ではない
何らかのトキシンだが殺害が目的のものではないと思う
細かいことは今ラボで血中の代謝物を分析させてるところだ」
いつの間に採血していたのか僕は気づかなかった
「ラボ?ここは病院じゃないんですか」
「俺の病院だよ
金は俺のじゃないがね
臨床検査室とは別にラボがあるのさ
ちょっとアメリカンだろ」
そう言いながら僕の目をぐいと開かせて
ペンライトで目の奥を照らす
マスクをしていない顔は意外に穏やかな顔だった
「瞳孔がおかしいんですか」と僕
「おかしいかどうか見た」
「さっきから妙に眩しい気がしてたので」
「ふむ自覚ありか」
「何なんですか」
「いやたいしたこっちゃない」
「あの
トキシンて言いましたよね
どういう毒なんですか
まだ残ってる?」
「いやもうほとんど分解したろう
手
その手の甲の黄変だが
そこもぶつけたか何かしたかね」
そう言われて僕は朧げながら思い出す
ダフネが落ちてきたとき
いやその後で
誰かが傍にいた
何か金属のように冷たい物が手に
「何か冷たいものが」と僕
「そうか
ならばそこからだ
小さな傷があったから
何か鋭利なもので皮下に放り込んだんだろう
後でちょっとサンプルさせてもらうかな」
「皮下?注射されたということですか」
「いや針じゃない
刃のあるスパチュラみたいなものだろう
いずれにしても普通の人間じゃない
もしかしたら御同業者かもしれんな
吸収を早くしたかったんだろう
恐らくは
しばらくのあいだ君の自由を奪うことが目的だった
あの子と一緒に連れ去ろうとしたのかもしれん
短時間代謝を急速に下げるものだったのかもしれん
おかげで君は助かったのか
いや
まだ推測に過ぎないことだ
いずれにしても
すぐに先生の家に戻らん方が良さそうだ」
「先生」というのはあのひとのことらしかった
よく知った間柄なのだろう
「先生からも頼まれている
あと二三日はここにいることになるな」
そう言って部屋を出て行った
廊下であのひとの声がして
ほんの二言三言話し
それから二人が遠ざかっていく気配がした
二三時間あとになってまた
あのひとが僕たちを見にやってきた
「どうかね」
そう言って顔を出し
僕が答えるのを待ちもせずに
「元気そうだな
あの男はああ見えてけっこう優秀な脳外科医だから
安心していいぞ」
それだけ言うとまたドアのところから覗き込んでいた顔を引っ込めた
あのひとのことだ
きっと頻繁に誰かと連絡をとるかしているに違いない
そう考えたとき
またあのひとが顔を見せ
今度は部屋の中まで入ってくると
「忘れるところだったが
コック殿が調理してないものを差し入れたいというので
もらってきた」と
透明なビニルの袋をサイド・テーブルの上に置く
無花果だった
無花果なんて久しく口にしたことがない
ダフネがそれを見て「フィゴ」と言った
それを嬉しそうに聞き
「ダフネは無花果を知っていたらしいな
そうだとも
ずっと昔から
歴史のはるか彼方から
人間たちの無聊を慰めてきた果実
実に美しく熟れている」
とあのひとが言う
そんなこと言わなくたって無花果は無花果だと僕は思う
でもそう思ってからまた考え直す
何かあのひとは考え込んでいるのだと
「もらってきた」と言ったのだから
コム・ゴギャンにもまた立ち寄ってきたことになる
僕の頭の中で「イチジク」という音が
何度も繰り返された
イチジク イチジク
何か別の意味があったような気がする音
それからまた時間が経ち
優秀な脳外科医がダフネの傷を見にやってくる
そう言えば
この何日か看護師らしい人は来なかった
検査室の他にもラボがある
トイレに立ったとき見た廊下はかなり長く遠くまで続いていた
だから大きな施設のはずなのだが
あまり病院らしい物音が聞こえない
この部屋は特別な一画にあるのだろうか
ダフネはガーゼを交換してもらっている間
おとなしくしている
いつの間にかダフネはパジャマを着ていた
たぶん病院のものなのだろう
ダフネには少し大き過ぎ
おかげで処置するときにもひょいとパジャマを引っ張るだけで済む
僕は壁にかかっている時計を眺める
何もすることがない時間
いや数日も
これは何のためなのだろう
何かのモラトリアム
Aさんと未踏のことをもう少しはっきりさせたかったのに
そのためのはずだった夜は潰えてしまい
何もすることのない時間がやってきた
そう言えば
Mは
Mはどうしているだろうか
もう崖の上の家には戻らないつもりなのだろうか
耐えられなくなったのだとしたら
それは僕が悪かったのだ
唐突に僕は思う
時間はいつ生まれたのだろうかと
それは矛盾した疑問だった
時間がない世界で「いつ」を問うことなどできない
でも
それまでは時間が無くて
ある時に突如として時間が生まれたのだとしたら
その前は何だったのだろう
宇宙の始まりがビッグバンだという話を僕はいつも不思議に思っていた
宇宙の卵が爆発した
そうならその卵はどこにあったのか
無が突然に宇宙の卵を産み落としたというのは
全然理屈に合わない
時間はその卵よりもっと前から在ったのか
いや
時間は
今もそれを実感するのだけれど
いろいろな出来事の変化があるから感じられる
そういうものではないのか
だとしたら何もなかったところには時間もなかったのだ
時間は宇宙が生まれる前からずっと在り
空間は時間の後から生まれた
そんなことがあるだろうか
僕がシステムの面倒を見るアルバイトをしている
岬の観測センターは
潮汐や海流
水温と気温の入り混じる現象を追いつづけているところなのだが
それ以外にも
いやその関係でなのか
ちょっとした口径の反射望遠鏡も備えていて
その一画はなぜか「時間起源研究センター」と
口づてに言われている
そんな看板は何処にもないのに
鯨たちが遥か遠方の仲間と歌を交わす海は
ある意味
巨大な
宇宙を星々を映す時計でもある
その物理的な大きさだけでなく
その長大な時間軸のゆえにも
深く海水の回流する海は
いわば時間の回廊
何千年という繰り返し
僕は最近そこでの仕事にやる気を失い掛けていた
理由はよくわからない
何かそういう遠大な科学と
自分の日々が相容れない気がしていたのかもしれない
ダフネのことやM
それから少し遠い時間になり始めた未踏とAさん
それはどの道
たかだか数年
長くても数十年のことに過ぎなかった
その時間が速く進めば進むほど
観測センターの話題とは掛け離れて行くように思えたのだろう
時は始まりなど持たない繰り返しに過ぎないのかもしれない
1分が60秒の
1時間が60分の
そして一日が
一ヶ月が
一年が
1から始まって極まり
またリセットされて
繰り返す
それをあの世まで延長して人は輪廻を想像した
先に進むと見えて
止め処なく繰り返す時間
それが今そこで秒針を動かしている壁時計の
白い文字盤の上でも起きていた
執拗に時間が繰り返される
そんな気がする
ベッドにじっとしていることが苦手なダフネが
その回廊を歩き続ける
ぐるぐると
なぜだか
そこには白亜の列柱が立ち並び
ダフネはその一本一本に挨拶しながら
まるで真新しい知り合いにするように
少し緊張した顔でそっと頷き
それからまた歩き続ける
そうなのだ
僕たちは
これから何処へ
そしていつまで一緒にいるのだろうか
経巡る時間の文字盤の上を
どこまで歩いていけるのか
繰り返しでない明日は