時間が経つと解決することと
いくら時間が経っても解決しないことがある
あの夜のこともそうだった
僕はAさんに僕の部屋の鍵を渡そうと思ってコム・ゴギャンに来た
それは未踏のことをもうあれこれと考えるのを止める
というか
そんなに大それた決心なんかではなく
もうそうなって長くなりつつあった推移を確認する
そんな程度のこと
それがなぜだか
いやなぜだかじゃない
あのひとがAさんや僕をつついたりするから
話が変な方に逸れ始め
それから予想もしてないことが起き
事態はとんでもない方向にどんどんと進んで行った
でもそれは
ずっと気になっていた
いや気になっていたのに忘れかけていたこと
ダフネの身の上にまつわる幾つかの疑問を
いやその日にはもう「幾つかの」ではなく
「幾つもの」疑問になっていたのだけれど
それを考えまい
ただ今の毎日だけでいいと思って
忘れかけていたことを
とても極端な形であらためて
突きつけられたのだった
意識が戻ったとき
おそらくは小一時間なのだろうか
ダフネは寝台から降りて僕の傍に立っていた
右手にはそれほど厚くないギブスが
薄汚れた白さで巻き付いていた
薄汚れて見えたのは
ダフネの腕が対照的にあまりに白かったからかもしれない
あるいはまだ誰も裂けた服を着替えさせることをしていないのか
服が血と土にまみれていたせいかもしれない
何にせよダフネにまとわりつくものは皆薄汚れて
ダフネだけが白々と透き通っている気がする
ダフネの
ギブスとは反対側の肩には
大きなガーゼみたいなものが
半透明のテープで留められていた
微かに血が滲んでいたがもう血は止まっているらしい
僕はまだ当然寝かされたままで
起き上がろうとしたが誰かの手が左肩を押さえていた
「慌てない」とだけその手の主が言う
さっきの医師だとわかる
「固定はしたがもうしばらく動くな
頭の方はひとまず心配はない
ただそうとうアルコールは入ってる
なんで口の中切ったのか
その子の頭でもぶつかったのかもな」
それはAさんよりも歳上
五十は過ぎているだろう
硬そうな頬骨をした男だった
辛うじて僕は「すみません」とだけ言う
「すまんことはない
この子もそうだが曲芸めいた対処の仕方だったようだ
君は頭を強く打っているが
硬膜下出血とかは起きてない
吐き気はするかもしれないが
後はその肩の痛み程度さ
まあしばらく様子は見る」
そう一気に言ってから急に思い出したように
「聞こえるね」と聞いた
その声の斜め下あたりで何かガリガリ音がする
「あ またやってる 困ったやっちゃな
そんなに気になるか」
首をやっと動かして音の方を見ると
ダフネがうろつき回りながら
ギブスの端
そこから指が小さく飛び出しているギブスの端を齧っていた
「ヒビが入っていて痛いはずだと思うんだがね
君のお仲間は齧歯類の遺伝子でも持ってるのだろう」
そう言いながらマスクの中で少し笑ったらしい
硬い頬骨の下辺りが小さく動いた
「ピアニストには申し訳ないがコム・ゴギャンに置いてきた」
そう言ったのはあのひとだった
それから幾つかの点を
その時点で分かっていた点をかいつまんで
如何にもどんな危機でも多弁にはならないぞと言いそうな様子で
圧縮して話してくれた
音はパンクではなかったこと
しかしダフネが落ちたのは弾か何かが当たったためではなく
自分の傍をかすめた何かの音に驚いたためだったらしい
僕が聞こうとするのを黙らせるように
「二発めはダフネの肩を裂いて飛んだらしい
それも落ちて来るダフネに向かって撃った
後ろから
下手な鉄砲撃ちではないらしい」
「二発?」と僕
僕はたぶん最初の一発しか聞いていない
「調査官の見立てでは
一発めは建物の反対側つまり駐車場側からだが
ダフネを傷つけた二発めは君らが居た側からだ」
「警察に連絡したんですか」と僕が聞くと
あのひとは「いや私はしていない」とだけ言って黙った
何か考えている様子だったがそれ以上は何も言わない
今度は医師らしい男が
「その子はそれでも5針は縫ったよ
とても丁寧にな」と言い足した
そのときになって僕は肩の辺りに重い痛みを感じた
重くてしかも熱かった
まだ頭はふらふらしている
ワインの飲み過ぎだけでなく
何か薬をのまされのだろう
それを肯定するように医師が言った
「まあ二三週間は不自由だが
その前に
もう何時間かするとヒーヒー言うことになるかもしれない
まあそんなところだ
夜になればまあ明日の朝のことを考えようか」
夜になれば?
そのときになってようやく僕は気がついた
室内の照明のせいで明るいのだとばかり思っていたけれど
もう朝になっていたのだ
さっきは処置室みたいな壁だったが
今は病室なのだろう
窓から光が差しこんでいた
透明な
静かな光だった
ダフネは僕の枕元と窓との間を
ギブスの端を齧りながら何度となく往復していた
窓まで行って振り返るときに僕の方を見たが
往復運動しているときには足下を見ている
光の中で昨夜とは別の
明るい柔らかな影絵が動いていた
空気の中の微小な粒子の群れが朝の光の中で白い三角錐になって
その中を通って僕の傍に来るたびに
ダフネは何か言いそうになったが
声には出さない
医師もあのひとも立ったままでいた
二十分以上も二本足の齧歯類は
考えあぐねた小動物みたいに往復し続け
それからとうとう僕のところにやってきて
ギブスをしていない方の手を急いで伸ばし
僕の顔に触ってから
そのまま僕の胸に頭を預けて中腰のまま静かになった
あのひとも医師も何も言わなかったが
ダフネは擦れたような声で言った
「K ワタシを」
それだけだった
言葉ははっきりと聞こえたけれど
文法的には文を成していず意味は定かでなかったけれど
僕は理解したと思う
この出来事はわからない
しかしダフネが今何を言ったかは