「長い間
そうだ
随分と長い
随分と長い
人と向き合って時には人を動かし
逆に人に動かされるのがほとんであるような仕事をしてきた身だ
その中で人の良さや悪さ
喜ぶ姿も悲しさも数多見たが
喜ぶ姿も悲しさも数多見たが
その人々とその表情の向こうに
一貫して
透けて見えたのは人でも魂でもない
状況だった
状況だった
世界という力強く変化する怪物だ
人の気持ちや生き方などというものは
それに比べれば
まるでただの木の葉か何かで
状況に吹き煽られて
舞い上がりたまたま絡み合っては
土に落ちるような存在に過ぎぬ」
そこまで一気に言うとあのひとは
深く息を吸い込み
それから非常にゆっくりと吐いた
「ひとの気持ちや生き方など
ただただそうなったということに過ぎず
しかし
その『ただそうなったこと』こそが
どんなに重く
そして美しかったことか
それを
君たちはあたかもすべて
自分たちの努力や真摯さで作り上げられる
と思い込んでいる」
と思い込んでいる」
再び深い息の音
「まあいい もうよそう」
珍しいことだった
あのひとが言い出し自らその話題を閉じるのは
僕たちにとって
年齢も大きく離れたAさんと僕とにとって
いずれにも
いずれにも
それは確かに食前酒には重すぎた
いや
年月を重ね経験を重ねた老人にとってさえ
軽い酒ではなかったのかもしれない
あのひとは話しやめた後も
なおも深い息の音を立てた
そのとき
幼い頃に出会ってより初めて
幼い頃に出会ってより初めて
僕はあのひとを老いた人なのだと感じた
なぜ今宵なのかはわからないものの
ただの偶然ではなく
この夜に感じなければならなかったことのように
明瞭に
そして忽然と
そして忽然と
しかし
過ぎたことを
何を今更
僕らは言い合っているのだろう
そしてそのことで
この老いた人の久しぶりの来客との晩餐会を
僕は台無しにしてしまいかけていた
たとえ過去がなおも今の中で
息づいていようとも
今夜は今夜であるべきだった
あのひとの激しい言葉の後に広がった沈黙
そこにテーブルクロスの上から
何かがテーブルにことりとうちあたる音がした
ダフネだった
ダフネがナイフの背を下にして巧みに立てては
また元に戻す
ストローのようには転がらないはずのナイフが
ダフネの掌の下で
寝たり起きたりしていた
食事の来るのを待ちかねたのか
それとも大人たちの
意味の分からない論議に飽きたのか
でもダフネには少しも苛立った様子はなく
そうやって
ナイフを時の振り子のように
立てては寝かすことをたのしんでいるようだった
ゆっくりと
とてもゆっくりと
大人たちは
ダフネをじっと見
そしてダフネによって動かされている
時の振り子の音を聞いていた
「おお申し訳ありません
私もすっかり耄碌したのか
いやちょっとした手違いで
おやまあ10分もお待たせしてしまいましたか」
陽気な亭主が左手には特大サイズのサラダを抱え
右手には何かの肉料理
小さく切られた塊がしっかりと煮込まれた色合いで山盛りの銀皿を
載せて現れた
それを見ると
あのひとは嬉しそうに笑い
「いや遅いことなどあるものか
すべては頃合いだよ
さあシェフの腕前を批判すべく
舌を研ぎすませて
頂くとしよう」と言った
亭主は微笑んで
「おおどうそどうそ
いかなるお小言も喜んで頂戴いたしますとも
その言葉を調味料にして次の料理を作りましょうかな」
今までの時間はどこかに
消し飛ばされてしまったかのようだった
その切り替えの速さに僕らも
従わざるを得なかった
ただ従っただけではない
従いたかったのだと思う
Aさんも僕も
容易には答の出そうもない審問を
これ以上続ける意志の力を持ち合せていないことを知っていた
おそらくは
僕もAさんも既に長い時間をかけて問いかけてきたのに違いない
それが一夕ふわりと全て解けてしまわないことは
明らかだったから
話題は急にシャンソン歌手たちの話になり
ダフネはよほどナイフの振り子が気に入ったのか
食事の間も
食べ物が口に入っている間は特にそうだったが
振り子を寝かしては起こす女神の仕事に
熱中していた
大人たちはみな
それを微笑んで眺めた
特にそれが
強迫的な行為ではなく
緩やかに楽しみながら成されていることに
心を動かされていた
ダフネはナイフをじっと見るあまり
ときどき頭をテーブルにすり寄せるように
ナイフを覗き込んでは
そう
今日ダフネはよく笑う
ほんとうに楽しそうに笑い声を上げ
気づいたのは僕だけではないだろう
ダフネが
ナイフの滑らかな表面に映る部屋と人を眺め
そうやって
彼女の世界を開いては閉じ
そのたゆまない変化を楽しみ始めていたことに