「違いますよ」と僕は言う
「僕よりもAさんのほうがまだ吹っ切きれてないみたいですね
なんで今更『すまない』なんて言うんだろう
そんな人でしたっけ」
僕はAさんの方ではなくダフネの目を見ていた
僕にはダフネがあんなことを
いかにも流暢な日本語で言った理由が
九分どおり分かっている
「もう2年
いえ時間が問題なのじゃない
未踏が死んだようになったのを見ていたあの頃
僕は嫌というほどわかっていた
僕らを繋ぎあわせていたのは
愛情なんかじゃない
慰めあいみたいなものだったんです
ふたりとも
自分ではどうしていいかわからない気持ちを
ぶつけられる相手が欲しかった
未踏が求めていたのは僕じゃなかったし
僕が愛していたのは未踏じゃない
あの歌
歌へのひたむきさ
それが僕を未踏に繋いでいた
でもとうとう
Aさん
僕はわかった気がした
身を引いたとか譲ったとかいうことじゃない
僕が愛していたもの
未踏の歌へのひたむきさ
そいつがどこかで
Aさんへの愛慕と重なっていることに気づいたとき
結局僕は
未踏じゃなくて
未踏のあなたへの焦がれる想いを
愛していたんじゃないかと
だから今でも貴方がピアノを弾けば
僕は身震いしながら聴くにちがいない」
なんてバカバカしいことだろう
でも
そのバカバカしさを僕はよしとしたのだ
それから僕は
そういうバカなのだ
「すぐわかったとは言いません
でも今はわかっている
だからいくらなんでも『すまない』なんてひどすぎる」
Aさんはちょっと恐い顔をしていた
たぶん僕になんかではなく自分に向かって
それからまた別の言い方で「すまない」というんじゃないかと
僕は恐れたが
Aさんはそれほどバカじゃなく
両手を握ったまま手の甲をテーブルにゴンとぶつけると
「私のピアノがか」と独り言のように言っただけだった
「ではダフネの問題発言は
Mさんの勘違いだと言うのかね」
とあのひとが言った
「勘違いとかなのかどうか
Mがダフネにそう言って
それをダフネが口真似した
ありそうなことだと思います
でもMが言葉どおりの意味で言ったのかどうか
僕には分かりません
どういうときに言ったのかも分からないし
それに
Mはそんなに思い違いするほど
バカじゃないし
僕のことがわかっていないわけじゃないと」
それから僕は急に目尻が熱くなった
ほんの少しの間
皆が黙った
沈黙を破ったのはあのひとだった
『ここまでにしておこう』と
味見しただけで手放されたグラスを
手に取り直して飲み干し
こう言った
「若いのに秋めいたことだ」
Aさんは黙った下を向いたままだった
両の拳はスフィンクスの前足みたいに
まだそろってテーブルの上で
動かずにいた