言葉と音楽 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 僕が何かを言葉にしたいと思うときって
 ムラがあるんだよね
 言葉を綴るのを止められないときもあるけれど
 全然言葉なんてどうでもいいと思うときもある

 言葉が尽きたとかじゃないのだけれど
 言葉にしたくなくなる

 どういうときかっていうと
 少なくとも一つ思い当たるのは
 音楽にはまっているときなんだな

 ダフネのウクレレが崖の上の家にやってきてから
 僕は弦の響きから逃げられなくなっていた
 日頃数字ばかりの世界にいると
 それもほとんどは画面の中の
 急に音が恋しくなって
 そういうときに何かが耳に入ってくると
 ふらふらと音に引きずられてしまう

 昔から弦楽器の音は好きだったけれど
 ピアノも含めてね
 そのくせ
 自分では手を出さないでいた
 うまくなれっこないと思うから
 いや他にも理由はあって
 けれどあの不思議なウクレレに触ってしまった後
 下手でもいいから弾きたいと思うようになってる自分がいた
 手がそれを望むっていうか
 音に触りたいという感じなんだな

 何だろう
 音はきっと僕の中では言葉に似ている
 思い溢れて言葉にするように
 何かを夢中で弾こうとするのも
 同じところがあるような気がする

 だから音を立てていれば言葉は要らない
 っていうような関係になってるのかもしれない

 でも他の人が作り出す音は
 歌でも楽器でも
 それが特別の感情を作るなら
 それが僕に言葉を思い浮かべさせ書きたいと思わせることがある
 自分が音を立てると
 言葉は急に要らなくなって萎んでしまう

 僕は何かを書くときには
 それなりのリズムを刻んで書いているから
 いやときどきメロディも言葉の中にある
 それを音にしてしまうと
 言葉の中のリズムやメロディが希薄になって
 言葉が消えるのだ

 そう
 言葉も音楽も僕にとっては息すること
 両方なんて贅沢過ぎるということらしい
 もしかすると
 両方とも僕にとっては感情エネルギーみたいなものを食い尽くすのかも
 いや食い尽くすというより解き放つ

 それは僕が知りあった人たちを見ていても
 感じることでもあって
 未踏は歌を夢中で歌った後はもうほとんど
 言葉を話さない
 もとからおしゃべりではなかったから
 歌った後は
 もうほとんど沈黙の人になったものだった

 きっとこれは言葉と音楽のあいだだけではなく
 ダフネのように踊ることで
 感情を表現するような人なら
 しっかり踊ることができれば言葉は要らないに違いない

 踊りにも一つ一つの動きが
 連続しているようで区切りがあって
 そういう意味でなら
 踊るのも言葉なのかもしれないと思う

 どれも似たところがあると思うのさ
 音楽も踊りも言葉も
 ただ何気なく流れていってしまうこともある
 でもちょっと
 耳や目を澄ますと
 その何でもない流れの中に
 起伏があり
 彫りの浅いところ深いところがあって
 光が当たっている場所もあれば
 影もある

 耳や目を澄まさなくっても
 深い細かな彫りに気づきたければ
 見たり聞いたりするだけでなく
 自分でやってみればいい
 手が耳や目になるのさ
 だから何かを弾いていたいと
 でもダフネのウクレレは特別なものだから
 それ以外に何かを探そうと
 だから今僕には弦楽器がある

 ちょっと前に面白い本を読んだのだけれど
 それは古代ギリシャの大叙事詩を書いたホメーロスは
 海の色をワインの色だとか菫色だとか書いていて
 それに気づいた後世の人が
 ホメーロスは色弱だったのかもと言い出したのが始まりで
 実はその時代には
 「色」の名前が今みたいにたくさんなく
 ホメーロスよりもっと遡ると黒と赤くらいしかなかったということがわかったらしい
 いわば光と闇
 見通しが利いて安全な昼と誰がくるかもわからない恐ろしい夜
 あるいはもしかしたら血の赤だったのか

 絵の具を買えばずいぶん見知らぬ色名を勉強できるけれど
 遥か古代ギリシャの人たちにとっては
 ただの二三色しかなかった
 信じられないような話だけれど
 どうやら確実なことらしい
 しかも実はこれはギリシャだけに限ったことじゃない

 つまり色名は長い長い時間の中で世界中で
 少しずつ区切られてきた

 僕は音楽も言葉も踊ることも
 皆同じなんじゃないだろうかと思う
 色名だけではなく
 何かの物を形容する言葉はみんなそうやって
 細かく彫りの深いものに進化してきたのだと

 しかもそれはただ色の「名前」だけがそうだったのではなく
 その色の名前が色を細かく表現するようになると
 人々の目も色を細かく分類できるようになっていった
 いろいろな色を表わす言葉があれば
 目はその色を区別しようとして懸命に見て
 そうやって見ることで
 あたらしい名前の色を見ることが出きるようになり
 またときどき少し違った色を見つけては
 それにあたらしい名前を付ける

 以前聞いたことがあることだけど
 「日本人の虹は七色だが西洋人の虹はたかだか五色」という話も
 けっこう真実なのかもしれない

 同じ一つの出来事ですら
 何度も何度も反芻すると
 そのうち今までは気づきもしなかったことが見えてくることがある
 人もそうだ
 同じ人なのにどうして今まで
 この人のこういうところが見えなかったのだろう
 と思うことないかな
 知りあって付き合えば付き合うほど
 見える陰影は細かく深くなる
 characterがギリシャ語の「彫る」からできた言葉だと教わったことがある
 その意味は少し方向が違うかもしれないが
 それにしたって「なるほど!」だ

 そんなこと考えて
 ふと思うのは
 言葉も音楽も踊りも皆おおもとは同じで
 時とともに
 より細かな起伏の奥が見えるようになる
 そのためには
 何度も何度も
 それを生きてみなければいけないのじゃないかと

 あるいは人生ってやつもね
 人生にこの話を当てはめようとして
 ちょっと
 というか凄く困るのは
 人生は一回切りで何度も生きられないということだ
 ああもう一度同じ出来事を体験できたなら
 もっともっと分かることがあるはずなのに
 それができないのが人生だね

 だとしたら
 一つの出来事
 一回の人生
 いろいろな角度から
 あるときは言葉で
 あるときは音楽で
 あるときは踊って
 生きればいいだろうと
 根っこが同じものならば
 出来事や人生が一回切りでも
 言葉と音楽と踊りで生きてみれば
 三回生きることになるんじゃないかとね

 でも
 最初に書いたように
 この三つを全部同時に生きてみることは
 とても難しい
 どれにもそれなりの時間が必要だから

 やっぱり選択しなくてはいけないことなのだろうと
 そう考え出すと
 僕は息が苦しくなるんだよ