僕は最近
ちょっと人が聞いたら理解に苦しむかもしれないことで
「悩む」と「考える」の間くらいの気分によくなる
「人は何のために生きているのか」
そんなことは知らないし悩む気になれない
だって
たとえはっきりした目的がなくたって人は生きなければいけない
自殺はけっこう多くの宗教で「いけない」ことだ
でもまた多くの宗教では何らかの良い目的がある場合には
自殺的行為を認めるし求めもする
だがその「目的」って何か
そこで話は元に戻ってしまう
考えるでもなく思うでもなく
ふと僕が気がかりに感じるのは
「何のために生きているのか」や「何のために生きるのか」じゃなくて
「何のために生きるべきか」なのだ
しかもそれは前二つの質問の答えに従って決まるのではない
むしろ前二つの質問の答えに逆らい抗ってのことなのだ
生きる当事者である僕が決めるべきこととして
決められて生きるのではなく
でもこの3つめの問いもまた
堂々巡りに陥るか大きな矛盾に突き当たる
なぜなら「かく生きるべき」と決めて
それがそのまま実現できる人はどのくらいいるだろうかと
あるいはまた
決めた生き方を途中で考え直す人も多いだろう
土台まだ起きていない未来について
「べき」を繰り返したからどうなるものでもない
そうなると3番目の質問は
少しトーン・ダウンして4番目の問い
「何のために生きたいか」になって
僕はまた振り出しに
つまり最初の2つの質問辺りに戻ってしまう
僕の思考パターンの種類が少なすぎるのだと思う
1から3の質問への答えに依らず
ただ第4の問いだけに答えて
「私はこういうふうに生きたい」
「俺は絶対こうするのだ」と
それだけに賭けて他の3問は捨てておく
そういう人も大勢いるだろうに
僕はそういうところにたどり着けない
ただ自分の欲望に従って生きる
それがいかなる結果を招こうと
そう言いたいのだが
思い切れない
それは確実に僕の弱さというか欠点なのだと思う
しかもそんなこと考えている時間もなく
人生はどんどん進んで行くのに気づかされ
現実に立ち返り
そこで僕の思考ごっこは緊急停止する
緊急停止の原因は他にもあった
急な登りの小径を抜けて
崖の上の広い道まで届いたとき
僕は少し早足で登ってきた勢いで道に飛び出し
もう少しでそこを歩いてきた人にぶつかりそうになったのだ
何しろこの道で人に出会うことはほとんどない
たまに崖の上から海を見たいと思うのか
二人連れやウォーキングの人たちがやってくるけれど
一番の見晴らし台にはあのひとの家が建っている
車だってそう多くは通らない
だから人がいるとは予想もしていなかった
僕は下を向いて登ってきたので最初それが
男か女かもわからなかった
何か人間サイズのものがすぐ僕の頭の横辺りに浮き上がって
僕はびっくりして顔を上げた
女の人だった
それも背の高い
僕の目の高さをその人の目が通り過ぎた
僕のほうをちょっと見て
思わぬところから飛び出してきた相手に向かって見せるような
少し驚いたような
それでいて「まあまあ何をそんなに急いで」と言いそうな
微かに笑った目
僕が息を呑んだのは
その目が青みがかった灰色だったせいだ
ダフネの目の色そっくりだったから
通り過ぎたのを後ろから見ると
短めの髪の色もダフネの髪の色に近かった
すらりとした身体つきの草色のコート
旅行中の散歩みたいな穏やかな歩き
一瞬僕はその人がダフネの親戚か何かで
崖の上の家を訪ねてきたのではないかと思った
そうなら引き止めなければいけない
ダフネが登りきって僕の隣に立ったときに
「ダフネ」と声をかければ
まだその人に聞こえる距離だと思って振り向いたのだけれど
ダフネはそこにいなかった
それどころか視界のどこにも見当たらなかった
すぐ後ろを登ってくる気配がずっとあったので
てっきりそこにいると
でも僕の悪い癖でぼんやり考え事をすると
耳や目が利かなくなる
不安になった
浜にいたときダフネは特に感情的な素振りは見せなかったので
いやそれでもいつもとは何かが違っていたのに
油断していたのかもしれない
僕は慌てて小径をとって返す
数メートル下ったところにダフネはいた
しゃがみ込んで何か草叢の中を見ている様子だった
小径の両脇は背の高い草叢になっているので
しゃがみ込んだダフネは草に隠れて見えなかったのだ
ダフネの視線の先にいたのは
細い体にほとんど透明の羽をつけた蜉蝣だった
こんな季節に?
そう思ったが確か蜉蝣の羽化は場所に依る
種類も多様で地域毎にそれぞれの蜉蝣が生息する
そんなことを昔調べたことがあった
でも蜉蝣はおそらく川か池のあるところで生まれる
ここのような海際にいるとしたら
たぶん風に流されて来たのだろう
その蜉蝣が動くことなくじっとしているのを
ダフネの目は見逃さなかったらしい
「ダフネ」
僕は上の道までダフネをすぐに連れて行こうと声をかけた
ダフネは声が耳に入らなかったらしく
目を蜉蝣から逸らさずに
それから手をすっと蜉蝣のいる草に向かって伸ばした
それに気づいたのか
蜉蝣は数回羽をはためかせて浮き
一度ダフネの手の甲に乗ってから
風に吹き飛ばされるように宙に舞い上がる
ダフネがくるりと顔を回して目で追った
蜉蝣が挨拶していった手は
蜉蝣に伸ばしたときの形にままにしていた
何か大切な出来事を後生大事に時間の小箱にしまいこむみたいに見えた
でも細く羽の透き通る蜉蝣の姿は
見えない風に押し隠されるように
ふっつりと見えなくなった
ダフネはそれでもまだ顔を動かして見上げたままの方向を
見つめ続ける
目が青く光っていた
僕がダフネを抱きかかえるようにして
立ち上がらせ上の道まで戻ったときには
もうさっきの女の人の姿はなかった
道がカーブして見えなくなる位置までは200メートル以上はある
ダフネのところに戻ったのは
ほんの少しの時間だったと思ったのだが
僕は奇妙な無力感に襲われて
姿の見えなくなった人をまだ探し続けていたが
ダフネが気にも止めずに家の方に向かって歩き出したので
僕も後を追う
そうだ
あのひとが家にいる
家に戻れば誰だったか
もしも崖の上の家を訪れた人ならすぐにわかる
それを確かめてから車を出せば
まだ追いつける
ダフネを急かして小走りに玄関に飛びこんだ
「驚いたことがある」
あのひとが玄関に立っていてそう言った
「誰なんですか?」と僕
「誰?誰かに外で会ったのか?」
「あ 今そこで 背の高い女性です 30代か40行ってるか」
そこまで言いかけるのを珍しく無視してあのひとは言った
「封筒が
なくなった封筒が戻っている
私の部屋の机に
元の場所にだ」