いつの頃からか
僕の左胸の奥に痛みがあった
生きてきた時間の中で少しずつ結晶した石のように
そして時には鈍ったメスで
縦に並んだ細胞群を横に切り裂くように
世間の愚かさにひきつり
生の悪戯が重く沈んでは
今度は
自分の愚かさに打ちのめされて
時には息を吸い吐くのが苦しくなるように
時にはカッと熱くなる火のように
いつの間にか穏やかになり
忘れてしまいそうになることもあるかと思えば
それを静かに眠らせることは決してしないとでも
言わんばかりに
僕に戻ってくる
痛みがあるから
僕は生きていて
痛みがあるから
心があるのだと
言われたことがある
生きてあることは痛むことであり
痛むのは心ある者だけなのだとも
僕はそれを信じてきた
僕だけではない
君もそして他のひとたちも
等しく痛みあるがゆえに
生きてあると知るのだと
ちょうどちょっと病んで床に就いたとき
日々の健やかさを有り難く思うように
そうして
痛みは一人でも強まったり弱まったりしたが
誰かのことを考え想うとき
僕自身が痛みそのものになったかのように
激しくなり
君が生きるがゆえに
僕は痛み
僕が生きるゆえに
君は痛む
そういうふうに思って
ひとを眺め
痛みを抱きしめていたときもある
そんな痛みが消える日は
きっと僕が垂れ込めた雲の向こうを夢に見ながら
そっとこの世を去るときなのだろう
あるいは生きて
もはやこの世に誰かひとがいるということを
砂粒のかけらほどにも考えなくなるときに
それはとても安楽な時間に思えるけれど
一方で
余りにも馴染んでしまった痛みを失うことが
そら恐ろしくさえ思える
生と痛みの因果律
いずれがもとで他が生じるのか
もはや僕は問うことはできない
その問いは知のなせる架空の図案描きに過ぎず
生と痛みはいつも共に
ひとつの事としてあるだけだと
ならば僕は何を怖れよう
おそらくはただ
君の痛みと僕の痛みが同じではなく
それぞれにお互いの痛みを知ることが
生きている間には決してないだろうということを?