僕がAさんの顔を見て呑み込んでしまった言葉
それはとても単純な
動詞も入らない疑問文だったけれど
先が続けられなかったのは
半分はすごく驚いたからだったけれど
驚いて言えなかったことを僕は
すぐに良かったと思い直した
どんな出来事も予測なんてできないものだ
それでも起きてしまえばすぐに
理由が浮かんできて
まあ多分起きて当然だったんだと僕は思うのが常
けれどこのときは
Mがこの前イギリスに行ったとき
帰りにニュー・ヨークの未踏のところに寄ったのを
僕は知っていたし
未踏の写真も見せてもらった
だからその折に
Aさんにも会って
僕が崖の上の家に居ついていることを
Mが伝えたってことはあるかもしれない
いやそうじゃない
あのときはまだMすら僕がここにいることを知らなかったはず
何にせよAさんが僕の所在を知ったからと言って
僕に会いにくることなんかありそうになかった
それでも僕を探し出したなら
とてつもなく大きな理由があることになり
それは未踏のことでしかない
だとしたら
でも
そこまで考えが至ったのは
あのひとがAさんをリビングに通した後になってから
その前にあのひとは僕とAさんを交互に見て
「君たち知り合いだったのか」と言った
僕もAさんも「ええ」としか言わなかった
僕はだいぶ怖ず怖ずと言ったと思う
Aさんは感情を表に出さずに
それでもあのひとは
「そうか」と言ったなり理由は聞かなかった
僕にはAさんの来訪の理由が分からないまま
ダフネをリビングに押しやるので精一杯
Aさんはブランケットをかぶって素足で歩くダフネをちらりと見たが
特別関心を示さなかった
ダフネは庭を眺めるように突っ立っていたので
僕はコーヒーを淹れようと
いや少しだけ頭を冷やす時間が欲しくて
キッチンに逃げ込んだ
そこに聞こえてきた会話は
この来訪の目的が僕でないことをすぐに教えてくれたので
僕は少し安心した
いやそれはただ頭の中でだけのことだったかもしれない
「あなたがピアノを弾きたいっていう?」とあのひと
「はい 通りがかったら学校の中からピアノの音が」
「校長から面接を頼まれたときは物好きか何かだと思いましたが
お名前に聞き覚えがあった
最初はどこで聞いたのかわからなかったが
しばらくして
知人が送ってくれたCDだと」
ぼくはそこであの不思議なショパンの弾き手が誰だったのかを理解した
「奇遇ですね
その人の娘さんが音楽院にいた
それだけのつながりで
名前なんか覚えてもらえるようなものじゃなかったですし」
「いやそれはともかく
校長はそんなにペイは出せないということを気にしていた
『それでも』と言われたのですか
それを少し不審に思ったらしくてね」
そこまで来てAさんが乾いた声で笑うのが聞こえた
「ずっとお願いしようというわけではないのですが」とAさんは付け足した
つまりこういうことなのらしい
Aさんがふらりとバレの学校に現れて
バレのレッスンのピアノを弾かせてほしいと言ったのだ
それはとてもAさんらしい話だと思う
未踏のことを一方的に考えてさっさと消えるほうがいいと思ったAさん
もしかするとあのときも理由はそれだけではなく
生来の放浪癖みたいなものがあったのかもしれない
そもそもレスポワールに居ついたときだって
すごく無茶苦茶というか短絡的な経緯だった
恋人か何かと言い争って別れたまま
そのレストランにあったピアノを弾き
そのままそこに
Aさんという人の才能からすれば
安定した職に就いていて何の不思議もないのに
そんな感情的な理由で
そういうことをする
そういう人なのだと
でもそう考えて「ありそうなことだ」と考えている僕とは別の僕がいて
その別の僕は
豆をドリップに淹れようとしたところで
フリーズしていた
息が止まりそうになっていたからだ
頭がカッと熱くなり
心臓を握りつぶされそうだった
Aさんが今度は未踏をニュー・ヨークに置いたまま
ここに現れたのだとしたら
未踏はどうしたのか
もしもAさんが未踏を置き去りにしたのなら
僕はまたあのときみたいに
Aさんを赦せないだろうと
でもAさんはそんな人じゃないと今の僕は思っていて
だとしたら
今度もまた未踏に何かが
たぶん僕は今朝のダフネのこともあって
きっと自分でも自分がつかめなくなっていたのだと思う
そういうときにAさんが現れたので
正直どうしていいのか
どう考えていいのか分からなくなっていた
珍しく僕は感情的になっていて
目の前のコーヒー・メーカーを叩き落としそうになるのを
必死でこらえた
僕は未踏が幸せにやっていると
ずっと思っていたし
だからもう未踏はMの言うような「僕の未踏」ではない
それを今更「未踏は?」と聞くことはできないと
「今までもそういうふうにやってきたので
僕としてはとんでもないお願いをしているとは思っていません」とAさんの声
それからあのひとが
「『芸術家は自由がお好き』というやつだね」と
少し皮肉が混じったような声で言い
「いえ もう自由を求める歳でも」とAさんが笑い
あのひとも笑った
それはたぶんこの採用面接が
肯定的な結論に達したことを示していた
ほんの数分で
それにしたって何ていうことだ
「K?」とあのひとが呼んだのはコーヒーの催促
それを待っていたかのようにAさんが
「ちょっと失礼」と言って席を立った音がし
Aさんがキッチンの入り口に現れた
「未踏はとても元気にやっている
君にまた聞いてもらいたいといつも言っているよ」
そう言いながらAさんはつかつかとやってきて
「アメリカンで悪いけど」そう言いながら
軽量スプーンをもったままの僕を
あまり逞しくない両腕で強く抱きしめた
「僕が間違っていた
君が正しかったんだ」
思いもかけない言葉だったけれど
僕の呼吸はすっと静かになる
男だけど
こんなとき涙が出てくるのを可笑しいなんて言う奴
居ないと僕は信じている
おそらく当の僕自身を除いては
「よかろう」とあのひとが
リビングに座ったまま言った