道草はもう十分
後はまっすぐMの家へ
静かな行進曲みたいに
夕暮れの住宅街
あのひとの家に居候するまでは
どこに行くでもなく
よく夜の住宅街を走ったものだった
今日は目的地がある
家の前まで来て僕はあわてて減速した
Mの家の駐車スペースはきっちり2台分
J先生がいなくなってか
それともJ先生は車を使わなかったのか
前に来たときも1台分は空いていた
だからそこに入り込もうとと思ってやって来たら
あのひとの大きな車がスペースいっぱいに停まっていた
やれやれ僕がここに寄ることを知っていたみたいに
家の横を曲がった道に車を停めて
車を降りるとまた初秋の風の中に花の匂いがした
どこにこの匂いの主は咲いているのだろうと
入り口とは逆の道を少し行ってみる
でも見当たらない
暗くなっているせいもあるだろう
今更ながらに
見えなくても薫るものがあるのだなと思った
戻ってMの家の入り口まで歩いたら
ばっさり畳んだ傘を持ってMが立っていた
家に置いてあった服を着ているのだろうか
ずいぶん前に見た服のような気がした
こっちに気づいているわけではない
家の中を向いて戸惑っているように見えた
そっと歩いて行って斜め後ろから声をかける
「何してるのさ?」
案の定Mは跳び上って僕の方を向き
「え どうして?」と言った
「どうして?って?」
「だって車がそこに
家の中で話し声がしたと思ったし」
「で 入りそびれてるわけ?
入りそびれる理由があるわけ?」と僕は笑いながら聞きつのる
「ちょっと驚いただけよ
帰ってきたのが中から見えた?」
「いや 僕も今来たところ
車はあっちだし
だいたい中から僕は出て来たわけじゃないよ」
「車はあっち?」
「あれはあのひとの車だよね
僕のはあっち」
Mが状況を察するまで何秒もかかかった
いつものMらしくない
「なんでおじさまがまた来てるのかしら?」
「さあ でも昼過ぎには一緒だったんだ
ダフネを学校に連れて行ったから」
「戻ったの?」
「そう 夏も終わったし
Mにも都合があるらしいし」と僕
「部屋に戻ったの?」とM
「そう Mが来た後みたいだけど」
そう言いながら僕はMの目を覗き込む
それほど驚いたり当惑している色はなかった
「そう
郵便受けゴミ溜めになってた」
「うん けっこう長いこといなかったからね
全部捨てて来たよ」
Mの表情は大きく変わらず
「そう」と言っただけだったので
僕は内ポケットからベージュ色の封筒を出して
「まだ読んでない」と言った
「読んで」とM
穏やかな言い方だった
「読む前に聞きたいことと言いたいことがあるんだ」
そう言うとMはそれには応えず
「私 本当に知らなかったわ
私がKのお母さんと何度も会ったことがあるなんて」と
まっすぐに僕を見て言った
「もちろん 僕もだ
でも何だかそんな気がしてきていた」
「私も
でもそんなお伽噺みたいなの無いと思っていたわ」
「お伽話?」
「Kが私の結婚相手のオウジサマだったのよ」
「何?」
「雨の日に」
「傘?」
「Kにも記憶があるのね」と
今度はMははっきり聞こえる大きな声で言った
答えだった
僕が確かめたかった
確かめて何になるわけでもないけれど確かめたい
そういう疑問て人生にはきっといっぱいあるに違いない
そういう疑問の何番目かの
僕がMの質問に答えようとしたときだった
家の中から「Mなの?」という声
よくとおるMの声が聞こえてもおかしくはない
まして今Mは少し甲高い声になっていた
「そうよ!」とMは僕から目をそらさずにまた大きな声で言った
「何してるの 早く入ってきなさい
誰かいるの?」
「Kちゃん」
「あら それは大変だ」
そうMの母親が言ったか言わないかのうちに
ダフネの「M」という声が聞こえ
玄関のドアがバタンと開いて
ダフネが飛び出して来て
ほとんど三段跳びみたいな勢いでMに飛びついた
頭に草木で作った冠みたいなのをかぶっていた
「M M M」
久しぶりに聞くダフネの同語反復だった
それからあのひとの姿が玄関の照明を背にして現れて
影絵の顔が
「おそかったな どこで油売ってたね?」と聞いた
それに答える前にMの母親があのひとの後ろから顔を出して言った
「顔見たいわ
本当にもう長い間見ていない
どんなモンスターになったのかしら」
モンスター?
「モンスターって何よ!」とM
「あら いけなかったかしら
だって私が知っているKちゃんはほんとモンスターだったもの」
僕はそう言いながら出て来たMの母親の顔を見る
夕暮れで玄関の外の照明で斜めから照らされた女性の顔
ちょっと前に写真で見たときには
そう思わなかったけれど
今は懐かしい顔に思えた
写真よりは明らかに歳をとっていたけれど
僕は不思議な感じがした
Mに似ているのは当たり前だったが
Mの母親の顔には僕の母を思い起こさせるものがあった
血のつながりがあるわけではない
年齢なのか何か共通するものがあってそう見えるのか
世代なのか長い付き合いの結果なのか
でも僕が不思議なことだなと思ったのは
それだけではなかった
こっちを見ているその表情はどこか
J先生の表情にも似ていたから
「ダフネったら」とMは言いながら
ダフネを自分から引き離してダフネの背中に腕を回した
「さあさあ」とMの母親とあのひとが同時に言った
「ちょっと待って」と遠くにいる人たちに言うようにM
牽制するような少し硬い声だった
「あら お邪魔だったかしら」という笑い声
でもそれに答える前に今度はダフネがMを引っ張り始めた
「ダフネ」とMは言ったがダフネは聞いていなかった
「ほらほら 話なら中でもできるわ」
そう言うとMの母親は中に引っ込み
あのひとも後に続いた
玄関を入るとき
僕はダフネの肩をつかまえて
じたばたしているダフネを押さえ込んで
それから僕の方に振り向いたMに言った
「簡単なことだよ
僕には君が必要だ
だから戻って来てほしい」
Mは僕を見たまま
二三度瞼を閉じたり開けたりしたがそのまま
前を向き靴を脱いで廊下に上がった
ほんの微かに頷いたようにも見えたが何も言わない
答えてくれなくてもよかった
あるいは答えが「だめよ」でも
いやまだイギリスに移住すると聞いたわけでもなく
Mが去ると思って言ったわけでもない
仮にそうでも
僕にはMを説得したりするつもりは元からなかった
僕はMの決心に従うだろう
ただ
言いたかったのだ
言っておきたかっただけなのだ
だから今そう言ってしまった後で
僕は身体に入っていた力が和み
そして満足した
リビングに入る前にMはもう一度振り向いて
「ケ・セラ・セラじゃないからね」と言った
見ると二つの目から涙がちょうど溢れて
雨上がりの外を歩いてきた頬を零れ落ちようとしているところだった
Mは泣いていた