シャボン玉を追いかけて走り出したとき
近くのバス停で何人か客を降ろして走り出したバスを追い抜いたが
1分もしないうちにまた追い抜かれた
バスの後ろ姿を見ながら走っていると
太った40くらいのおっさんが見事なジョギング姿で
濡れそぼって走ってくるのとすれ違う
息を切らして悲壮感の塊みたいに走って行った
この人もきっと雨など降らないと走り出したのか
それともわざわざ雨の中を走りたかったのか
ブランドのジャージがぐしょ濡れで重たそうだった
それからまた走ってさっきのバスが次のバス停で止まっているのを追い越し
こうしていると走るものにしか関心がなくなる
不思議なものだなと思ったとき
僕はとんでもない勘違いに気づいた
全くどうかしていた
僕の住んでいた街は二つ隣で
最近はあのひとの車で行き来していたのと
車に乗っている間
車内に誰かがいたり色々考えながら走っていたりで
距離感がすっかり呆けていたらしい
丘陵地を抜ける道でつながっている街と街
車でならたいしたことはないけれど
走りで行くとなるとアップダウンが幾つもある道は
僕でもけっこう大変なのに気がついた
というか
僕の頭の中ではここと大学のある街が重なってしまっていて
すぐそこにあるような気がしていたのだ
たぶん夏の間は岬の観測センターに行くことが多くて
やっていることが似ていたからか
いや
というより夏の間の出来事の印象があまりに強くて
僕は自分の古巣を忘れかけていたのかもしれない
走り出したときにそのことが頭をかすめもしなかったのは
どうしたことだろう
確かに僕はときどきぼおっとしていると
土地勘というか方向感覚が弱くなってしまう傾向がある
一所に定住することがあまりなかったせいなのかもしれないが
小さいときも遊びに出て遅くなるまで家に帰らなかったりしたから
僕の性質の一部なのかもしれない
とにかく
このまま走ったのでは部屋に着いて車に乗るのが
だいぶ遅くなる
Mの家に行ってそれからまたダフネをバレの学校まで迎えに行くことを考えると
時間が足りなかった
ダフネを連れてあのひとの家にやってきたときだって
電車に乗ってきた
街中を抜けて走る路線の数駅分
結構な距離なのに
何を勘違いしたのだろう
気がつかないうちに僕は頭が変になっているのじゃないかと
また思った
でも今度は「呆けてるな」と一言自分で言って立ち止まる
馬鹿げた勘違いに気づいて慌てたのか
息が切れていた
さっきのジャージをちょっとバカにした自分が惨めだった
即興曲だなんて言ったりして
何を調子に乗っていたのだと思う
駅は方向が違うし
この濡れ鼠の恰好で電車に乗るのも気がひけた
「バス?」とあのひとが言ったのを思い出して
次のバス停まで走った
この市内を巡回するバスならダメだけれど
途中の丘の上の住宅街まで行くバスなら
その先まで行っているはずだった
たどり着いて時刻表を見ると
隣町まで行く次のバスまでは30分近くある
待たないで走りつづけるかと一瞬考えたが
ここまで呆然と走ってきたのかと思うと力が抜けた
バス停のベンチに濡れたままで座って時間をやり過ごしている間
僕は車道を行き来する車を眺めていた
自分とは関係のない生活の動きだという感じがする
それから急に
ダフネに出会った日
ダフネもずぶ濡れだったことを思い出した
幸い時間帯のせいで二三人しか乗客のいないバスに乗ったときには
服も雨が滴るほどではなくなっていたが
それでも座席に座ると雨が滲み出してきた
けれど不思議なことに
投げやりな気分も薄れて妙に落ち着いてきていた
次のバス停に着いたときには雨は上がり始めて
乗り継いで自分の部屋から二筋離れた道のバス停で降りたときには
雨は完全に止んでいた
バレの学校を出てからゆうに1時間半以上経っていたけれど
正直に言って僕は焦ってはいなかった
馬鹿げた勘違いと慌てたことも
これでいいんだと
バスを降りてからまた走り
長いこと留守にしていた自分の部屋に戻る
郵便物は転送届けを出していたから無いはずだが
郵便受けには広告チラシがいっぱいになっていた
崖の上の家にこの先も居座るのなら
ここも何とかしないといけないという思いが浮かんで消える
シャワーでも浴びて少し温まってから出かけようという
最初の計画はすぐ却下した
もう十分シャワーを浴びたような
濡れて潤った感覚が身体中に広がっていたから
乾いた服の感触が快かった
それ以外は何も見ず何もしないで出かけようと思う
でもドアの郵便受けが余りにゴミの山だったので
それだけは片付ける
紙屑をゴミ箱に押し込もうとしたとき
チラシにはさまったベージュの封筒が見えた
宛名はK
仲間の誰かが来て置き手紙でもしていったのかと裏返して見ると
見慣れた字で
Mの名前があった