
夜
久しぶりに復活した
血のつながらない家族の夕食は
誰一人はしゃぐ者のいない
静かな時間になった
気持ちが沈んでいたのではない
それどころか
僕たちは皆
心を震わせていた
思いが溢れて言葉が滞る
その証拠に
僕たちはずっとお互いの目を交互に
見つめ合って食べて飲んだ
僕が見た誰の目にも
お互いを望む
静けさがあった
日頃人の目を見ることなどないダフネですら
床の上のユニィオですら
ダフネはすっかりウクレレの恋人になり
楽器をずっと剥き出しの膝の上に置いていた
材質がコアの木ではないのと
形が少し変わっていた
チューニングも金属ギヤではなくて木のペグ
本当にウクレレと言っていいかわからない
ケースも実にしっかりとした作りだったが
ケースにも楽器にもどこにもブランドがなく
まるで一から手作りでもしたようだった
けれど誰かが趣味で作ったにしては
どこにも寸分の隙もない
こんな楽器は見たことがなかった
4弦目の太さから
たぶんこれはlow-Gで
つまりAECGのGがハワイアン用なら
AECと低くなってGだけ1オクターブ高く調弦され
それゆえにあのハワイの波間に軽やかに
流れるような音を生み出すのだが
そのGをCより低く
つまり1オクターブ高くせずにしたものらしかった
コンサート・タイプの少し長めの楽器では
よくある調弦で
もしかしたらこの楽器の持ち主は
ハワイアンではなくてクラシックの曲を
弾いていたのかもしれない
僕は次第にダフネの手から
楽器を取り上げて音を立ててみたいと思い始める
夕飯が終わり掛ける頃
ダフネが楽器をまた人形のように抱き上げて立ち上がり
ふわりと歩いて
開け放したままの庭に出て行った
「ダフネは少しおとなっぽくなった」とあのひとが言う
確かに今日のダフネは静かだった
自分で選んだのかMがそうしたのか
浜から帰ってから薄い黄色のワンピースに着替えたダフネの姿が
夜の庭の中に浮かび上がるのを
大人たちは目で追った
棚になっている蔦状の植物の下で
ダフネは立ち止まり枝を見上げる
そしてそのまま動かなくなる
一分二分と時間が過ぎていくのに
ダフネはそのままじっと枝を見上げている
「何か光ってる」とMが気づく
枝にダフネが見つめるものがある
まるでオオミズアオのような白っぽい緑色の
僕たちは三人とも言い合わせたみたいに
立ち上がって
テラスまで行ってそれが何であるかを確かめる
蝉だった
羽がまだ柔らかく波打っていた
ほんの少し前に
羽化が始まったにちがいない
アブラゼミの大きさだったが
あの濃い日焼けした褐色ではなく
半透明の白っぽい緑の羽が
蛍光を放つように
ゆっくりと伸び広がろうとしていた
ダフネはほとんど凍りついたように動かず
蝉の姿に向き合っていた
長い地中生活を終えて
この蝉は敵の少ない夜に幹を這い上がり
いのちの最後の輝きを放つために
羽を伸ばすのだ
もっと早く気づけば
枝に爪を立てたまま背を割って
頭をぐいと持ち上げる姿を見ることができたかもしれない
抜け殻となった時間の外に
蝉は這い出し枝に留まっていた
まだ鳴くことはできないだろう
身体のほとんどを占める共鳴室も
まだ音を弾かせるには柔らかすぎる
それはまだ
殻に閉じ込められていた内臓の湿り気のまま
外気に耐えている
奇妙な身体だった
「何て言えばいいのかしら」とMが溜め息をつく
「ああ」と僕
長く閉じて耐えてきた時間が開くのだ
この昆虫の中で今起きていることは
なんと呼ぶべきプロセスだろう
おそらくは陽が昇らなければ
この羽は褐色の強さを獲得しない
でもその時には
やがて力尽きて転がり落ちるように生を閉じるまで
ひたすら鳴きつづけなくてはならない
「ほとんどのヨーロッパ人は蝉の声を雑音だとしか思わない」と
あのひとが言う
「だから日本の夏の映画の蝉の声は消して輸出すると
聞いたことがある」
そう
虫の音に情感を込めるのは日本人の感覚だ
いや日本人だって
鳴き通す蝉の声を煩わしく思うときもある
それほどに必死に恋歌を歌うのだ
ほんの片時
長い忍耐の後のほんの一時
それが明日を考えない享楽に思えたからこそ
ダフネの国のイソップは「アリとセミ」の話を生み出した
熱い国の蝉は少し北に行けば見知らぬ虫で
いつの間にかキリギリスにすり替えられた
素数ゼミのことを思い出す
膨大な数で生まれれば一匹一匹が外敵に食われる確率は減る
それゆえに13年あるいは17年ごとに生まれてくるという
それ以外にも地球の長い気候変動も理由になっているという説もある
いずれにしても気の遠くなるような時間を
ただ数日のために
それをただの享楽と呼ぶ人は蝉の時間を知らない
一匹の時間も
13年17年の群れの周期も
あるいはセミがキリギリスに化けるまでの時間
あるいは蝉という種がこの星の上で
長い忍耐と瞬間の歌という一生の在り方を定めるまでの時間も
それがあってこそ
今目の前の一匹が羽化するのだ
「ツィカード」と僕はダフネに言う
君の国の奴隷上がりの寓話作者が
束の間の生の享楽者ととらえたいのち
「ツィカード?」とダフネは語尾を上げて繰り返し
「ツィカード」とわかったかのように言い直す
そう言いながら僕の方を見たダフネの
青みがかった灰色の目の奥底に
今起きているプロセスは何だろうと
それが知りたくて
僕はダフネの瞳を覗き込む
ダフネが暗闇で
薄い黄色のワンピースの背中のファスナーに手を伸ばし
ゆっくりと引き下げると
薄紅色のダフネの肩がするりと後ろに伸び
裸の上半身がのけぞるように現れる
手に持った楽器に服が引っかかり
服は腕のところで留まってしまうが
ダフネは少し藻掻いて
楽器をもう一方の手に移して
完全に脱皮する
一糸まとわぬ蝉のダフネが
楽器を乳房に押し当てると
それはダフネの身体の中に入り込み
青く空けて見えるダフネの身体の中に
共鳴室がガラスの器のようにふくらんでいく
でもダフネは雄ではないから
この共鳴室は
雄の歌に響き合うための
それからダフネが空いた両手を静かに下ろすと
それは水気をいっぱいに含んだ青白い羽に変わる
これはダフネの
長い時間の終わり
それとも始まりか
僕は高まる感情を抑えられなくなって
ダフネを後ろから抱きしめる
その指に
ダフネが抱いた楽器の弦が触れ
漏れる息のように鳴った