木漏れ日 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 僕は思う
 編んだ麦藁を通過してくる海の光のようなものだと
 人と人が出会って
 お互いの心が揺れ動くのを感じることは
 見えない向こうを
 こぼれて散乱する光の揺らめきから
 見たように感じるようなものだと

 もしかすると人を好きになり
 愛するようになることも
 見えない向こうを
 見たように思うだけのこと

 仮にそうだとしても
 その「気がする」だけの光であったとしても
 それは幻ではない
 短い瞬間の中で確かに起きたことなのに違いなく
 それがどんなに短い間の出来事であったとしても
 僕はそれを眩しいと思い
 そして目を細めて見たことを決して忘れることはないだろうと

 悲しくもないのに零れる涙の
 一滴の中に僕たちは生きているのだと
 こんなにも熱く
 見えないものを見たいと望むのだから
 たとえ微かに垣間見ただけの向こうであっても

 妨げるものが何一つなく
 まざまざと見えるときに
 かえって僕たちはそれを見ないのかもしれない
 近ければ近いほど近すぎて
 見えなくなるくらいなら
 束の間見える遠くの光を
 遠くから見ているだけのときのほうが
 僕たちは幸せだと感じるのではないのだろうかと

 ならば僕は束の間の光に
 一生が凝縮して揺れるのを
 長く続く幸せの時間よりも確かなものだと
 思うべきなのじゃないのだろうかと


 僕たちの乗った車が門をくぐり
 一足先にエンジンを切った車の中から
 あのひとの懐かしい姿が浮き上がるように現われ
 それを見ながら
 Mが降りダフネが降りて
 ユニィオがあのひと目がけて走り出したとき
 そんな皆の動きが
 何か一つのこと
 二度と繰り返されないだろう出来事に向かって進んでいくように見えた
 
 なぜかユニィオが
 以前から慣れ親しんだ主人に駆け寄るように
 一心にあのひとの方へ走り

 小さく吠えたのを聞いたのか
 あのひとが振り返り
 十歳以上も若返って見えたあのひとが
 じゃれつこうとするユニィオを抱き上げて笑い
 その笑顔が感極まったように崩れ

 僕は知り合ってこの方
 一度として見たことのないものを見た
 あのひとの頬を涙がはらはらと流れ落ちたのだ

 この旅が熟達した外交官であったあのひとにとっても
 決して安易なものではなかったことを
 僕たちは一瞬で理解した

 「おお おお」とあのひとは
 老いた喉仏をせわしなく動かしながら
 「いい子だ いい子だ」と
 小さなユニィオに顔を近づけて言った
 それはまるで
 僕たち一人一人を抱きしめる代わりに
 ユニィオに挨拶しているように思えた

 「お帰りなさい」と僕が言うと
 あのひとはユニィオを抱いたまま立ち上がり
 「ああ また会うことができたな」と
 ユニィオを左腕で抱えると
 右腕を僕の肩に回し力をこめた

 「Mさんも元気そうだ
  ダフネ サルートン」
 そう言って
 近づいてくる二人を眩しそうに見るあのひとの後ろで
 庭木の葉叢の中を
 朝陽がきらきらと踊りながら近づいてきた