海市 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 海風の中を僕たちは進み続けた
 振り返ると航跡が青と白の曲線の尾を開裂させていた
 快さが素肌を愛撫する
 僕が走るのを好むのは風の中を突っ切る快感のため
 船で走り続ければそれは倍加する
 なんだかそれにつれて足が落ち着かなくなる
 それはきっとMも
 キャビンの中のダフネも同じだろう
 生きている感覚は突っ切ることだと
 ただ空気の密度である風にぶち当たることだと
 何度思ってきたことだろう

 日射しは徐々に強まっていき
 Mは「日焼けしそう」と言う
 ちょっと前なら走るのが好きなMはいつも日焼けして
 小麦色を通り越し浅く焦げたパンのような
 腕や足をしていたが
 しばらく外国にいたときは余り走らなかったのか
 もともとはこんなに白かったのかと思うほどの肌の色になっていた
 それでもダフネの白さとは違う
 崖の上の家に来てからは
 ときどき浜を歩き回り少しずつ日焼けし始めていた
 ダフネが濃いピンクに染まるのとはちがって

 「あ そうだ」と今頃になって気づいたように
 キャビンから麦藁帽子を持ってきてかぶり
 紐を顎に回した
 編み方が故意に粗くしてあるのか
 立っている麦藁帽子のツバから光が透けて来る

 ダフネが帽子を取りにいったMについて外に出てきて
 ツバから漏れる光を眺めている
 その光
 風に震えるツバの上下をくぐって行く風
 夏だなと今日は何度思ったろうか
 そのときダフネがまたデッキの手すりに走り寄り
 僕は慌てて立ち上がってダフネの腕をつかむ
 ダフネは僕の手を振りほどかずに
 逆に僕の腕にくっついてくる
 「妙におとなしいわね」とMが言う
 ダフネは泳げることを知っている
 水着を着たからだ
 もしかするとプールに着くのを待っているのかもしれない

 沖合に来て離れてきた港は点景になり
 行方はただ海一色だった
 雲もなく滑空する海鳥も跳び上る魚も見えない

 ダフネが急に身を乗り出した
 「あぶない」とMの声が後ろから聞こえる
 でも僕はもうダフネの肩を抱いているのであわてない
 「何だい?」と聞きながら
 ダフネの顔が突き出された方を見た
 ダフネが「ファントム・シッポ」と叫ぶ
 雲ひとつ無かった水平線上に船影が見えたのだ
 遠いのか形がはっきりしないけれど
 かなりの大型船だ
 ダフネが言うような帆船ではないと思ったが
 それでも帆があるみたいに
 船体の長さに比べると背が高い
 水平線を左から右へと進んでいるようだった

 「シッポ シッポ」とダフネが騒ぐのでMも隣にやってくる
 「船?」とMが言ったとき
 不思議なことが起こった
 船の舳先が一瞬延びてそれから引っ込み元に戻ったのだ
 ほんの二三秒のことだったが
 そう見えたのは僕だけではなかった
 Mも「え 何今の?」と言いかけ
 ダフネが「ファントモ」と言う

 僕たちの船はその船影に向かって走っていた
 遠くの船に必死で近づこうとするように
 エンジンの音が高まったような気がする
 その速度で進むと
 船影は忽然と消えた
 ダフネがまた「ファントモ」と叫び
 隣に立っていたMの腕をつかんだ
 どういうことが起こったのか
 頭が考え始める前に
 次の変化が起き
 僕たちは「わあ」と歓声を上げる

 ゆらゆらと揺れる水平線の上に
 長い半島のような影が浮き上がり
 その山裾らしい部分には
 街のビルが居並んでいるのさえ見える

 「蜃気楼だ」と僕が言うと
 キャプテンがガラス越しに「久しぶりだ」と応じた
 僕たちの船が走りながら左右に揺れるのか
 それとも空気の密度の揺らぎのせいか
 海市は僕らの視野の真ん中より少し上で
 地震でも起きている土地のように左右に揺れる
 ゆらめく陽炎のような光のムラの中に

 「こんなにはっきりしたの見たのは初めて」とMが言う
 ビルと思える建物の色さえ微かに見える気がし
 半島の山の端もうっすらと緑がかっている
 
 僕もこんなに奇麗な蜃気楼を見たことがなかった
 まるで本当に海の上に街があるようだった
 もちろん実際の街に比べれば
 揺らめく光の中に曖昧な形を見せているだけだが
 ふっと砂漠にでもいてオアシスの幻影に
 引き込まれて走り出すような熱い感覚があった

 おそらく船は緩やかに弧を描きながら
 走って来たので遥か彼方に
 湾曲して広がった陸地があるのだろう
 でもそれは
 実際には水平線の下にあって見えないはずで
 空気の密度の悪戯のせいで
 それが浮き上がって見えているのだと
 頭では考えるのだが
 それがなかなか信じられないほどだった

 ダフネがMの傍を離れて
 操船しているキャプテンに向かって
 大きく手を振り回し
 「ラピーデ ラピーデ」と叫ぶ
 もしかするとあの街には
 ダフネが水着を着て泳げるプールがあるのだろうか
 ダフネにとっては海は普段着で飛び込むところで
 水着を着たらプールに辿り着かねばならないと?
 僕はそんな勝手な想像をして
 思わず笑う
 それほどまでに
 ダフネは真剣に腕を振り回し
 素早くあの陽炎の岸へ辿り着きたがっているように見えた

 Mまでが
 「何処まで行けば
  あの街の中に船ごと飛び込んで行けるのかしら」と言い出す
 海が実体と虚像の違いを忘れさせるのか
 海はそういうところなのかもしれない
 海のほとりの崖の上にも
 そんな海の力が及んでいるのだろう

 「『何処まで行けば消えるだろうか』と言うべきじゃないかな」と
 少し醒めたように言った僕も
 その海上の街に辿りつきたいと思い始め
 キャプテンに言ってみる
 「まっすぐ進んで確かめましょうよ」と

 でもそう言ったときには
 船はきびきびと舵を切り始めていた
 「位置ははっきりしないが
  向こうは多分流れが速い
  水温も低いのだと思うよ
  泳ぐには向かない」
 とキャプテンが大声で言う

 クルーザーが海市に平行になって走り始め
 数分が過ぎた
 まるでどこか高い空の向こうへ飛び立つように
 蜃気楼が浮き上がる
 ダフネが「ラピ」と言いかけたとき
 海上の街は音もなく忽然と消えてしまった

 驚いたのか
 それともひどく落胆したのか
 ダフネがへなへなとデッキに座り込む
 「あーあ」とMがため息まじりに言う


 姿を見たこともない相手を人は好きになれるだろうか
 この時代
 顔を知らなくても僕らは話しをし
 スクリーンの上の文字で相手を知ることができるけれど
 いやそんな世界には限らない
 僕たちのごく普通の毎日にあっても

 形定かならぬ陽炎を人は好きになれるだろうか
 憧れて愛したとしても
 永久に辿り着けない街に人が棲めないのと同じように
 僕たちは陽炎のように立ち上る相手を
 抱きしめることはできない

 それは暖かい空気と
 冷たい海流の狭間に生まれて
 伸びやかに吹き広がる風に暖気が吹き払われる瞬間に
 何一つ戸惑うこともなく
 消え去っていく

 海市の中に憩う日は来ないのだ