翌朝まだダフネが倒れている間に
仔犬のジュニアは順調に回復し始め自力で食べるようになった
なんとか歩けるようになると
ダフネの期待を裏切って
ダフネの側をすり抜けて外に出たがった
小さいときから躾けられたのか
庭木の茂みの中にまで行って用を足すと戻ってきた
そうなると二階は不便だったので
分不相応な大きなベッドは一階に下ろされた
また皆がかぶれることを考えて
僕はジュニアを
今は使っていない庭の大きな金魚鉢の中で洗ってやった
食事が終わって新聞に目を通していると
地方版の左下に気になる記事を見つけた
一つは二つ隣の市の海に面した神社の「御船」が消えた話
写真は載っていなかったが昭和の初め頃に造られた
古い宗教儀式用の舟で数日前に盗まれたらしかった
ただ記事には「盗まれた」のかどうかは不確かだとあった
海際の小さな屋根付きの小屋に放置されていたものらしい
僕はすぐに「バルコ」を思い出した
二つ目の記事も同じ市のことだった
小さな見出しは「10歳の男の子不明」となっていた
飼い犬を散歩に連れて行ったまま帰らなかった
居なくなった日は4日前で
警察は誘拐の可能性がないと判断して公表したとある
二つの記事は僕の頭の中ですぐに結びついた
漂流していた古式の舟と仔犬
僕たちが少年を見なかったのは
不幸な出来事を予想させる事実だった
両方の記事とも連絡先の電話番号があった
僕は迷わずまず神社の方に電話をかけた
大きさや古さはほとんど「バルコ」のようだったが
形が言葉で言われてもピンと来なかった
スマホに写真を送ってくれれば確認できると言うと
10分くらいして実物ではなく
実物の古い写真をまた写真に撮ったものが送られてきた
まちがいなし
大当たりだった
僕はMに「たいへんなものだったみたいだ」と言い
また電話を掛けなおし見つけた場所を教える
相手はすぐに見に行くと言い
もし見当たらない時は立ち会ってくれるかと聞いた
僕は少し躊躇ったがけっきょく同意し
電話と住所を教えた
ジュニアの話はしなかった
もう一つの連絡先は警察署だった
関係ないかもしれないと思い
まず犬の特徴を聞こうと考えた
「新聞の記事の件」と切り出すと相手は
丁重な言い方で子どもも犬も昨夜
既に無事発見されたと言う
関係なかったことで僕は安堵する
その男の子のためにも犬のためにも
それからジュニアとダフネのためにも
出かけたものか迷ってMと舟の話をしたりして
時間を潰していた
昼前に電話が鳴って神社の関係者が
舟を見つけたと言ってきた
発見の経緯を聞くので散歩に出かけたとき
崖の上から漂ってくるのが見えたこと
浜につく頃には浜に打ち寄せられていたことを伝えると
改めて礼に来ると言う
僕はその必要はないことと
美しい形の舟だったので絵か写真でもあれば
それを記念にもらえれば嬉しいと臆面もないことを言う
相手はそれはすぐにも送りますと言った
少し変だなと思ったのは
「なぜ流されたりしたのでしょうね」と聞いたとき
曖昧な言い方が返ってきたことだった
おそらく杜撰な扱いをされていたのだろうと僕は思う
いずれにせよこんなことがあったのだから
これからはもう少し大切にするだろう
僕は「子どもが誤って乗ったりして流されなくてよかった」とは
言わなかった
そんなことは起こらなかったのだ
二つの小さな事件では
電話などすると
僕が変に疑われないかと少しは思わないでもなかったが
そんな心配もまったく無用な結末になった
両方とも穏やかな対応だったのに気をよくした僕は
ジュニアのことを届けておくべきかもしれないと思い始める
ダフネはジュニアを手放したくはないだろうが
もし飼い犬であったのなら
探している人がいるかもしれない
ダフネがまだフラフラしている間に届けようと思った
Mにそのことを言うと
「そうね ダフネはがっかりするかもしれないけど
Kちゃんて意外にまじめなんだ」と言う
僕自身
なぜそうしようと思ったのかわからなかったが
ダフネに見つからないようにジュニアを乗せ
市の警察署まで車を走らせた
走りながら僕はほとんど何も考えなかった
飼い主がわからないということだけが気になっていたのだ
警察ではどこで「拾得」したのか聞かれたが
僕は漂着したのを見つけたとは言わず
代わりに神社の名を言って
その辺を散歩していた時に見つけたのだと言った
仔犬が舟に乗って海に出たという説明は
信じてもらえないような気がした
誰か悪戯半分にジュニアを舟に乗せ
先のことをよくも考えずに海に押し出したのかもしれないが
その証拠はどこにもないだろう
話しているときになって
ダフネにはどう説明したらいいか気になり始めた
ダフネはきっとがっかりするだろう
クソ真面目に届けたりすることはなかったのかもしれない
「わかりました 今のところ届け出はないので
逃げられたという人が出たら連絡します
それまでは生き物だから引き取ってもらってもいいのですが」と
予想していない言葉が返ってきた
僕は喜んで承諾する
「飼い主が出なければ飼ってもらってもいいことになりますね」
と若い警官が楽しそうに言った
僕は尾を振るようになったジュニアをまた車に乗せて
家に戻る
ジュニアを見失ったダフネは特にパニックにならなかったらしく
ぼんやりMと一緒にソファに座っていた
「え 戻ってきたの?」とMが言う
「一応届けてきたけどしばらくは飼っててもいいんだってさ」と僕
ダフネはジュニアを見ると飛び上がるように立ち上がると
ジュニアを嬉しそうに抱き上げ
「モーゼ?」と言う
「モーゼじゃないよ ジュニアという名前にしたよ」と僕
ダフネはそれを聞いてしばらく考えているようだったが
やがてジュニアを持ち上げるようにして
「ユニィオ」と言った
「ジュニアだってよ ダフネ」とM
それでもダフネはまた「ユニィオ」と言った
ダフネの発音はときどき子音がはっきりしないときがある
だから「ジュ」が「ユ」になるのかもしれないと僕は思う
それに「ジュニア」より「ユニィオ」の方が
ダフネらしい感じがした
「じゃあ ユニィオにしよう」と僕が言うと
ダフネは満足げにまた「ユニィオ ユニィオ」と言う
それを聞いていたMがぽつりと言った
「ダフネの国の言葉はJを『イ』とか『ユ』とか読むのかしら」
頭の中で何かがチカチカと音を立てた
Jを『イ』と?
そうなのか
そうだとしたらもうほとんど僕は正しかったことになる
それは僕の記憶が正しければ
Junio 「六月」だ