日曜日の朝
Mが浜辺を散歩したいと言う
僕もしばらく浜辺まで行ってないようだと思う
ダフネもそうだった
僕の五月は終わってしまったが
それなりに記憶に残る一月だった
浜に降りると
海鳥の声が少し離れた磯のほうから聞こえてくる
自然は予定された調和に向かって進んでいくらしい
荒れてはいない海だったが
かといってゆったり穏やかに打ち寄せるというのでもなく
波がせり上がって落ちる動きは
海がいつまでも若く荒々しくあることを
誇らしげに表明していた
漁師が曳いたのか
網の引き摺られた跡が残っていた
今朝初めて気づいたのだが
浜の西端に一段高く岩場になっていると思っていたのは
石の形もはっきりしなくなってはいたが
人手による石積みで
昔は防潮堤になっていたのかもしれなかった
塩気をいっぱいに含んだ風が
僕たちの顔や腕に海の匂いを吹きつけてくる
「久しぶり
小さいときに来て以来みたいな気がする」
「そんなに?」と僕が聞くと
Mは首を横に振りながら
「そんなはずないけど今朝はそんな気がするの」と言う
珍しく後ろで束ねていないMの髪が
潮風に撥ね上げられて顔が見えなくなる
記憶はまるで日向に落ちた草の露
見えるか見えないほどに跡を残しても
やがては風に吹き飛ばされていく
記憶は当てにならない
どこか部分的に薄れ形を変えてしまう砂山のようだ
誤って残れば
事実とは違う記憶がひとつでき
僕たちが振り返る足跡は
波に濡れては歪み
その小さな記憶の誤りで事実とは異なる
もうひとつの過去を作ってしまう
ひとつの足跡が見失われるとき
僕たちが失うのはただそのひとつの足跡ではなく
その足跡が歩んできた浜辺全体が失われる
寄せては返す波を見て
崩れる波頭の音を聞いていると
小さな記憶の消失が
数知れない泡のように
それぞれに異なった別世界を幾つも作り出すのが
当然のことのように思えてくる
風の中で海を見ているMの姿が暗いシルエットに見えるほどに
初夏の海の光は時間を超えて煌めいていた
ダフネは淡い青のワンピースを着て
そのスカートを風に悪戯されながら
スキップを踏んで波打ち際を跳ねていく
立ち尽くすジーンズのMの
よく走る者らしい形のいい尻の向こうを行き来する
僕たちはかすかに不安を抱いているが
そのおかげで僕たちはこの心地よい風に拐われて
舞い上がってしまうことはない
海は命と死をともに育ててきたので
光ある朝にも光届かぬ秘め事を平然と胸にしまって
僕たちを出迎える
ダフネのスキップが速まって
やがて走り出す
しばらく走っては寄せる波の端へとジャンプする
飛沫がダフネを濡らす
眺めていたMが「よーし」と言ったかと思うと
ダフネのそばまで走り併走し始める
バランスのとれた落ち着いた走りだ
ダフネのひゅーうぴょんとアクセントをつけた動きとは対照的に
するりと滑らかに濡れた波打ち際の
なだらかな曲線をまっすぐに突っ切っていく
しばらくはMより波を愛していたダフネも
Mの作る線に絡まるように蛇行しながら走り出す
「浜の端まで走ろう」と僕が言うと
Mが片手をあげてOKしスピードを上げた
ダフネが貝殻でも見つけたのか水際にしゃがみこむ
その前に回り込んで
わざと水を蹴散らしてから僕はゆっくり走り出す
飛沫を顔に受けたダフネが驚いたように見上げる顔の円い瞳
驚いたことにダフネはさっと立ち上がり
僕を追いかけ始めたのか
水を弾く音が僕の後ろからやってくる
と思う間にダフネの姿が僕に並んで追い越した
笑い出したくなるほどのもの凄いスピードで
スカートが舞い上がり
すんなりとした細く白い足が見る見るうちに
Mの後ろ姿に追いついていく
僕もやわらかな砂地を蹴る
西の端近く漁師が落としていったのか
それとも打ち上げられたのか数匹の魚が折り重なって
そこに海鳥が数羽左右の羽を上下させながら
降りてくる
浜の端まで来るとMはくるりと向きを変え
ダフネの回りを海鳥のように旋回してから立ち止まる
ダフネがMに飛びついたので
僕がふたりのそばまで来たとき二人は砂の上に転がって
ダフネが甘えた子どものようにMの胸に顔を埋めた
「ああ 気持ちいい」とM
僕が「本気で走ってやがる」と腰を下ろしながら言うと
「そうじゃなきゃ気持ちよくないもの」とM
「ダフネもすごく速い」
そういうMの声にMの上にいたダフネが起き上がり
形を失って草に被われかけた石積みに向かって走りだし
ぶつかりそうなほどの距離で前転宙返りする
「えー」と驚いたようなMの声
ダフネの足が宙を舞い
石積みの足元に両手を付いたダフネの足が
まっすぐ伸びたまま
小さな石の壁に寄りかかるように
ぴたりと止まり逆立ちした
ダフネのスカートが
強風で裏返された水色の日傘のようになる
「ダフネ パンツ丸見えよ」とMが笑う
ワンピースの淡い青にそっくりのダフネの両足
逆さまになったスカートの端からダフネの灰色の目が笑っていた
「よーし」とMは跳ね起きると
まるでサーカスみたいにダフネと相似する軌跡を描いて
宙返りしてダフネのすぐ横に逆立ちする
「K」とMが逆さまの顔で言う
「まったくお転婆族だな どうしようもない」と僕
そばまで行くと
ダフネとMのふたつの臍が
小さな白い巻き貝みたいに並んでいた
こんなときにちがいない
人が限りある生のただ中に永遠のかけらを
見つけ出さずにいられないのは