忘れていた曲 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 夜
 僕たちは離された三つのベッドそれぞれで寝る
 Mの20番が僕たちを結びつけでもしたように
 僕らは身体で寄り添って眠る必要がない
 ダフネは二階に戻るとあっと言う間に眠りに落ちた

 「心って何かしらね」と
 ダフネの向こうからMが言う
 「その問いかけ方は正しいよ」と僕
 「どういうこと?」
 「一 Mは『心というモノ』とは言わなかった
  そう言った途端に心は脳か
  でなければ打ち続ける心臓になる
  でも誰もが心はモノではないと言う
  矛盾している」
 「二は?」とM
 「もし『心は何処に在るのか』と聞いたら
  それはこの空間のどこかに在ることを想定していて
  だから結局モノになってしまう」
 「じゃあ時間の中に在ると言えば?」
 「そうだとも」と僕
 それこそMの20番が教えてくれたことだと

 なんだかキャンプの夜の
 意味もなく続くおしゃべりみたいだなと思う
 感情の余波の中にいるとき
 眠れずにうわごとを言うように
 「なんで宇宙はあるんだろうか」とか
 後から思えば何一つ意味の無い


 その時になって
 僕はぼんやりと思い出す
 ダフネがノクターンを聞いたのは
 これが初めてではなかったはずだと
 コム・ゴギャンの花盛りの夜に
 ダフネはノクターンの中で桜に語りかけた
 でもあのとき20番は流れてきただろうか

 それだけではない
 もう一度ダフネはノクターンを聞いていた
 あのひとが友人が送ってくれたと言って聴いていたCDの
 真夜中のジャズのようなノクターン
 あれは誰が弾いていたのだろう
 あの不思議なショパンは
 ダフネはそれに合わせて踊ったが
 あのときも僕たちは20番までたどり着かなかったように思う
 どうして僕はどちらのときも
 20番を待たなかったのだろう

 ダフネに言葉が通じるのなら聞いてみたかった
 20番は今夜が初めてだったのかと
 仮に今まで百回聞いたことがあったとしても
 今夜のそれがダフネにとっても
 特別の20番であることを僕は胸の内で願っていた
 「ありがとう」と僕は言う
 「私もよ」とMが応えた

 何を『ありがとう』と言ったのか
 何を『私もよ』と言ったのか
 僕たちは明確に分かってはいなかったかもしれない
 でもそれが問題にはならない夜だった

 僕の関心のあることは
 文法と意味に寸分のズレも無いような細かな世界のことだと思う
 言葉の意味の曖昧さと定まらなさが嫌で
 勉強し始め入り込んだ道だったけれど
 ほんとうに僕の求めていたものは
 それだったのだろうかと
 意味などなくても
 こんなふうに僕らはしている

 人間なんて何が欲しくて何を求めているのか
 わからないものだなと思う
 ダフネの寝息
 ダフネは何を欲しがっているのだろう
 僕たちと同じようなものを
 それとも全く違うことを

 僕はまだ耳の奥でMの20番を聞いていた

 「ゼロね きっと」とM
 「え 何が?」と今度は僕が聞く
 「心」
 「ああ 『心』の話か」と僕
 「また他のこと考えてたな」とM
 「その ゼロがどうしたって?」
 「マイナスでもプラスでもない」
 「うん」
 「ゼロは数じゃない」
 「だから?」
 「ねぇ K 私の言うこと聞いてる?」
 「聞いてるよ」
 「じゃあKは鈍いんだわ」

 僕は自分が馬鹿だと何度思っただろうと言いそうになる
 特にMと居るときは

 「そうだな」
 「あのね ゼロは何処にも無いのよ」
 「マイナス1とプラス1の間にあるさ」
 「そうじゃないのよ
  1は指一本 右手の親指」
 「マイナスの指なんかないよ」
 「左手の親指がマイナス1よ」
 「ちょっと無理矢理」
 「はは そうかも
  でもゼロ本指の人っているかな?」
 「何が言いたいんだか」
 「だから ゼロは無いの」

 僕の頭の中で20番の際立った音が一つだけ鳴る
 そうかもしれないと
 ゼロは位取りのための方便だと言われればその通り
 昔々の世界の何処かではゼロは無かったけれど
 それはモノを数えるだけならゼロは要らなかったから
 今の僕たちにはゼロが必要だった
 なぜだろう
 
 「それが心と何の関係があるって?」と
 僕が聞き返したときにはMも眠りに吸い込まれていた
 僕が顔をあげてMを見ると
 こちらの方を向いて寝ている穏やかな寝顔が見えた
 まるでよく似た姉妹のようだなと
 丸くなって眠るダフネの顔と見比べながら思う
 全然顔立ちは違うのに

 庭の照明が窓の外から流れこみ
 ダフネとMの寝ている身体の影を
 稜線のように際立たせていた
 でも今夜は潮騒も聞こえず
 いや聞こえたとしても僕には聞こえなかったのかもしれない
 静かだった

 静けさとは何だろう
 それは在るものか

 ショパンが感情を曲の中に置く
 けれどその感情は五線譜の上には書かれない
 でも感情がない曲なんてあるはずがない
 ならばそれは行間に
 いや音と音の狭間にあるのだろうか
 際立つ沈黙とは何だろう
 沈黙と比較できるほどの音を
 そんなことを言った作曲家がいた気がする
 それとも音の連なりに
 ならばそれはゼロでなく数列だ
 
 今あのひとはどうしているだろう

 そんなことを考えているうちに
 いつのまにか僕もまた二人の眠りに落ちていき
 すべてがゼロのようになる

 時間軸の上のゼロはどこだろう