戻ったピアノ | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 「ピアノ?」
 Mと僕が同時に言った
 「ピアノなんかあったの?」とM
 「いや 見たことないな
  でも納戸辺りにしまってあったのなら分からない」
 「おじさまは弾く?」
 「いや弾かないと思う」
 「なくなった奥さんのかしら」
 「かも」
 それにしても何故あのひとの不在中に

 予想より早く出かけることになったのだろうか

 「あの どこにします?」
 「え どこって グランド?」と僕
 「いや 古めのアップライトで
  いいピアノだけど何しろ古い」
 「じゃリビングでいいんじゃないかな」
 「承知」

 荷台からエレベータみたいなのが降り
 そこに載っていたピアノは二人で運ぶらしかった
 ざっくりした帯のような紐をピアノに掛け
 それを今度は自分たちの肩に掛けると
 うっと息を止めたような声がしたかと思うと
 何重にもクッションで包んだピアノが持ち上がる

 僕は慌てて玄関の鍵を開けた
 リビングにと言いはしたもののどこに置くべきか分からず
 「陽の当たるところはダメよ」とM
 二人はリビングの中央まで一気に運ぶと
 実に丁重な仕方で床に下ろした
 「うーん ここだと」と年配の方が辺りを見回して
 「これ どけましょう」と言ったのは僕が壊した飾り棚だった
 「ここに置いてあったんじゃないですかねぇ」
 「え そんなとこには」
 「いや もう数年以上納戸だったって聞きました
  ほれ ここ床の色が少し違う
  ああ ここ ここ ここだよ」ともう一人に手を振って
 そこに合った飾り棚を軽々とずらした
 確かにそこにはアップライトが置かれていたような跡があった
 飾り棚より広いのに今まで全く気づかずにいた
 でも飾り棚は僕が小さなときにぶつかって壊した跡がある
 その位置で壊したのだとあのひとは言ったと思ったのだが
 だとしたら僕らが来ることになる以前のことなのだろうか

 およその位置までピアノを運ぶと
 布団のようなクッションが取り払われ
 中から色もところどころ変色したような古いピアノが現れた
 でもきっとかなり上質のものだという感じがする
 暗めのマホガニー 
 深い いい色だ
 こういうのが懐かしい色というのだろうと思う

 「あの これ 持っていって持って帰ってきたって さっき」と聞く
 「そうそう二三週間前だっけ たしかそのくらいだと
  ご主人から古いピアノ修理なり調律し直しなりしてくれって
  言われましてね
  あんときゃ他の物どかすの一汗かきましたよ」
 それからピアノは元あったという場所に移され
 痕跡とそれを残した本体がピタリと重なった
 「ひゅー ほんとねぇ ここにあったんだ」とM
 「二三日うちにまたもう一度調律さんが来るはずで
  そんときまで余りじゃんじゃん弾かないでくれってことで」と
 男たちはピアノについたクッションの糸くずを拭き取ると
 「へい そんじゃ確かに これにサインください」
 「僕の名前でいいのかな」
 「あ いいすよ
  留守番の人が受けとるからって言われてまさ」

 サインすると「毎度」と言って二人はさっさと出て行った
 「ねぇ これスタインウェイよ」とM
 「そうなの?」と僕
 スタインウェイだろうがベーゼンドルファーだろうが
 いったい何なんだと僕は思う
 ただこのピアノの色は時間を渡ってきた物だけが持つ色だった
 どういう人が弾いていたのだろうと
 僕はぼんやり考える

 二三週間前と言っていたが
 そうだとするとダフネと僕が居ない間に運び出されたことになる
 何のためにだろう
 もしかしたら誰かに弾かせようと思ったのだろうか
 でもそれが戻って来る前にあのひとは急いで出かけることになった
 そうだとしたら何か急なことだったのだろう

 「ねぇ K 鍵盤の上に封筒があったけど」と
 いつのまにか鍵盤に触っているMが言いながら
 空いている方の手で僕に差し出した
 「あなた宛よ」
 見るとあのひとの筆跡で「K殿」と書いてあった
 裏返すとあのひとの名字
 予定されたことだったらしい
 そうだ
 留守番の人が受け取るって言われたと言っていたじゃないか

 封はしてなかった
 中に薄い便箋が二枚
 「意地悪な話し相手がいないときには
  思い出のピアノの音でも楽しみなさい
  もう覚えていないかもしれないが
  これを専ら弾いてくれたのは細君ではない
  君の母上だ
  帰ったら誰かに頼んで弾いてもらおうと思っている」とあり
 最後にあのひとの名前の一文字目だけが
 書き慣れた美しいサインのようにあった
 二枚目は型どおり白紙

 僕はまだ事態が呑み込めないで何度も読み直していると
 突然に「子犬のワルツ」
 「うわぁ すごくいい」というMの声
 それから甲高く少しかすれたようなダフネの
 「ぴあーの」という声がした