時間が経てば子どもは大人になり
大人は人生を生き
それから老いていく
僕たちの心臓は周期をもって打つ
一生の間に心臓が何回拍動するのか考えたこともない
それはものすごく多くと言う他はない
計算してみればおよその数は分かるだろうけれど
その数が何か僕たちの今に意味を持つだろうか
月の満ち欠けも周期を持って繰り返す
その周期を「月」と呼ぶ
太陽にも周期があるがそれは磁極の移動や黒点の数
はっきりと僕たちが意識することのない周期
人の生活は一年ごとに季節を繰り返し
一日ごとに昼と夜を繰り返し
けれど確かなことは
人の人生には周期はないということだ
永劫の輪廻でも信じない限り
それは一方向にまっすぐ進むだけだ
ダフネが登り始めた階段も
ただまっすぐに
「私はすごくびっくりしたけど
知識として知ったときもそうだったけど
実際に起きてみると
いったい自分は何なのだろうかって」
「ダフネもそうなのだろうか」
「さあ 少し驚いたふうだったけど
言葉が通じないから
ほんとうのところはわからないわ」
「言葉が通じたからって
わかるわけでもないような気がする」
「そうね」とMは珍しく素直に頷いて
「すっかり忘れてたけど
私来るときにちゃんと観察メガネ買ってきたのよ」
「晴れるかな だいぶ雲が厚いみたいだけど」
そんな会話で僕たちは一日を締めくくる
「眠るわ 早起きするつもりだから」と
Mはそれだけ言って目を閉じた
一番の早起きはダフネだった
いつもより眠そうな顔をしていた
ダフネが窓を開ける音でMと僕が目を覚まし
既に明るくなり始めた空を見る
「もう昇っている時間よね」とM
太陽の姿は見えなかった
「ダメかもね」と僕
「次は北海道に行かないと見られないんだっけ」
「二十年も先 私たち一緒に居るかしら」とM
海沿いの朝の空気は寒かった
僕はMには答えなかったが
そんなに先のことなのに一緒にいるような気がしていた
「どっちにせよ 朝ご飯の用意しよう」と僕
「日蝕を見終わった頃には出かけると言ってた」
「駅まで送るの?」
「さあ あのひと次第」
あのひとも起きたばかりのようで
何か書類を読んでいるところだったが
一階に三人一緒に降りていくと
「さて食事にするか 曇りだな」と言いながら立ち上がる
「私にやらせてください
日頃あまりやらないことだから楽しくなっちゃって」とM
「それでは任せようか」
「今日はどうします 駅まで送りましょうか」と聞くと
あのひとは「いや いい」とだけ言って座り直す
「ダフネはどうかね」
「大丈夫みたいです まだわからないけど」とM
そのダフネはソファに深く座って大人たちを見ている
ダフネは僕たちをいったい何だと思っているのだろうと
僕は今更ながらに考える
いやダフネのあの目には僕たちはどう映っているのだろう
昨日の霧はもうなかったが
霧がそのまま上空に昇ったように厚い雲
陽の昇る方向の雲は白く明るいが
食事が済む頃に「そろそろ時間だけど」とM
「ずいぶん熱心だな」と僕が言うと
「だってそのためもあったんだもの
18日に帰ってきたの」
「そのためも」の「も」に僕は満足する
「それだけかって聞かないの?」とM
「聞かない」そう言ってテーブルの真ん中に飾られた人魚姫を見る
人には問う必要のないときもあるものだと僕は思う
問わず答えずわかることを大切にしなければと
何度かMが庭まで出て行って空を見る
ダフネは一回だけついて行ったが
すぐに
つまらなそうにMの後について戻ってきた
Mが何をしているのかダフネにはわからないのだろう
それを見ていて僕はカメラを用意する気になる
多分かなり古いがフィルターもあるだろう
いつかダフネが日蝕について理解する日のために
四回目に庭に出たときMが
大きな声で「雲が切れる」と言う
僕もあのひとも急いで庭に出る
強い陽の光が刺すように光っていた
「あ メガネ」とMが言って部屋に戻ろうとすると
僕がさっき穴を開けてメガネに付けたゴムを
引っ張りながらダフネが出てくるところだった
「それそれ ありがと ダフネちゃん」とM
でもダフネはすぐにはそれを手渡そうとはせずに
顔にかける
しかも二つとも
一つは目の位置にちゃんと合っていたが
もう一つは鼻の左右に
宇宙人みたいなダフネの顔を見てMが笑う
「ひとつは私のよ」とMは言いながら
両手での指で円い輪を作ってメガネをかけている振りをする
それを見てダフネは首をかしげる
「ダフネってば」と言いながら目の前に突き出された手に
ダフネがメガネを一つはずして渡す
目の位置に合っていたほうを
それを見て大人たちが笑う
「あれあれ」とMはダフネのメガネをずらして目に合わせる
既に月は太陽の前を横切り始めていた
大人たちは代わる代わる一つのメガネを譲り合う
ダフネはメガネをかけたまま
そっぽを向いてつまらなさそうにしている
ほとんど何も見えなくなっているだろうに
騒ぎ立てる様子もない
それに
月が太陽の前を横切って行こうと
ダフネにとっては大したことではないのだろう
不思議なことだと僕は思う
僕たちの星とあの光球は宙に浮かんでいて
その間を月というもう一つの球体が過ぎていく
それを人間たちが小さなメガネをかけて眺める
何の意味があるのだろう
意味があるとすれば
それはこの広大な宇宙に僕たちが生きて居て
たまたま四人が同じ庭に立って見上げる前を
音もなく月が過ぎていく
ごおごおと音を立てる船のようにではなく
何一つ音を立てることがないのに
あの球体は宇宙という海を過ぎていくのだ
それが
それだけがこの出来事の客観的な意味だろう
でもそれを見る僕たちの胸に沸き起こる感情は
Mにとっても
あのひとにとっても
ダフネにとっても違うと思う
月がちょうど太陽と僕たちを結ぶ線上に来ると
空気が暗くなった
「空気が暗くなる」
奇妙な言い方だと思うけれど実感だった
どれだけ僕たちはあの光球のおかげを被っているのだろう
それは命の
命と命を育てるすべてのものの勢いの源なのに
僕たちはそれを日頃考えることはない
意識してみないようなことが
僕たちを生かし続けている
金冠がフィルターの中で
無限回転する輪になって光る
そのときダフネの甲高い声が大人たちの後ろから聞こえた
「モーゼ」
メガネをかけたままで日蝕がピークになり
ダフネの世界も急に暗くなり
きっと驚いて皆が見ている方向を見たのだろう
それは金冠の周囲に膨らむ雲の厚さが
刻々と変わる中で
キラキラと白く輝く雲と
様々な濃さの灰色の雲が作り出した
束の間のモーゼのイメージ
ダフネはモーゼを忘れてはいなかったのだ
Mが「モーゼ」という言葉について何か言う前に僕は言う
「懐かしい犬の名前なんだよ」
ダフネはもう幾度か「モーゼ」と叫び
手を空に伸ばしたが
そこにモーゼはいなかった
雲がまた厚く広がり始めた
あの雲は今この星のどのくらいの表面を被っているのだろう
そんなことを考えるほど
たった一枚と思えるような大きな厚い雲が空を被っていた
僕たちはそれからほとんど誰も何も言わずに
ときどきメガネを手渡しては
一時間以上も庭に立っていた
ダフネもがっかりしたように手を下ろしてからは
立ったまま
見えにくいメガネを通して足元の芝生を見ているようだった
この出来事を
この四人が一緒にもう一度体験することは無いのかもしれない
でもそれはどうでもいいことだった
ケ・セラ・セラ
今ここでこうして居られたことを
この四人の誰もが忘れることはないだろうと僕は思う
それは確信であって
あの光球のように不動のものだ
今僕たちの
この朝も同じなのだと思う
僕たちの前を月は横切って過ぎたが
それはただ
岬を風が過ぎていくのと何も違わない
「そろそろ迎えが来る時間だ」と
あのひとが言った