風が快い日だった
ベッドの中で風を感じた
早起きのダフネが窓を開け放っていたからだ
昨夜あのひとの苦しそうな声を聞いたことを忘れそうだった
ダフネもすっかり元気な様子で
もうちゃんと着替えていたけれど
まだ部屋の中に居て僕が起き出すのを待っていた
一階に降りると
あのひとはもうとっくに朝ご飯の用意までしていた
表情には曇りひとつない
何時になるか僕は言わなかった
言わなかったがあのひとは僕たちの帰宅が
9時近くになるだろうと知っているようだった
出がけにコム・ゴギャンに電話しているのが聞こえた
快晴ではなかったが
悪い天気というのでもない
外の風はいかにも五月
下り坂の途中から見た海は碧かった
小さい鳥のチチチと啼く声に見送られて
僕はダフネを学校に連れていく
それから7時にダフネを迎えに行くまで
僕は何をしていたのかよく覚えていない
いつもの部屋にいたのは確かなのだけれど
学校に着いたときダフネはまだ踊っていたが
僕が練習場に入って行き傍まで行くと
すぐ一区切り付けて踊るのを止め着替えに行った
ダフネと僕が車に戻ったのが7時25分
それから車でとんぼ返りして駅前に来たのが8時10分前だった
ダフネは帰り道がいつもと違うのに気づいて
少しそわそわしたけれど
特に騒いだりはしなかった
物事がスムーズに運んでいく
後は時間に正確にやってくるMを待つだけだ
そのときになって僕は乗っているのが
自分の車でないことを思い出す
Mには車がわからないかもしれない
というかだいたいMを僕の車に乗せたことなんてあったろうか
改札口まで行こうかと思ったとき
Mがこちらに向かって歩いてくるのが見えた
そう言えば車で迎えに行くとも言わなかった
Mとは走ったり歩いたりしたけれど
ドライブに誘ったことはない
Mはまた長くした髪を後ろでまとめた姿で
まっすぐにこちらに歩いてくる
不思議な色のパンツ・スーツ
グレーに微かに青がかかったような地味な色
けれどMはどこにいても背景から浮き立って見える
懐かしい顔
Mは小さな旅行鞄みたいなバッグを肩に掛けていた
夜に迎えにくるのだ
これからどこかへ行くと考えていたのだろう
数メートルのところまで来るとちょっとだけ笑った
そしてそのまま車の左側へ
「ヤッホー お久しぶり」
自分でドアを開けるとそう言った
それから後ろに座っているダフネに気づいて
少し驚いたような顔をしたが
そのまま助手席に座る
「お帰り 早かったね」と僕
「10分前の人よね Kちゃん」とM
まっすぐ前を向いたまま
「元気?」そう聞いてから「よね」と
僕のメールみたいなことを言った
「まあね バカは風邪もひかない」と僕
「それで?」とM
ダフネの方を見ようともしない
「うん 今日は僕の知り合いの家に帰るので一緒に」と僕
「帰る?」
「ああ 言ってなかったけどここしばらく
そのひとの家に泊めてもらってる」
「そうなの」と言ってMは少し姿勢を変えて僕を見た
少し力を抜いたように見え
それから「その知り合いって外国の人?」と聞く
「いや そうじゃないよ」と僕
「そう」と言ってすぐにMは付け足す
「Kちゃんのお願いごとって後ろの子と関係あるのね」
「そう 道々説明するから」と僕
相変わらず頭の回転の速いMに懐かしさを感じながら
こいつには言わなくたってわかることがいっぱいあると
バック・ミラーの中のダフネは自分の前に座った人を
じっと見ているようだった
「じゃあ 紹介ぐらいしてよ」と言いながら
振り返って「今晩は」
僕も振り向くとダフネはきょとんとした目でMを見ている
「ダフネっていうんだ」
「そうなの 私M ダフネさん 初めまして」とMが言うと
ダフネが「ダフネ K ダフネ」と言う
それは自己紹介ではなくて多分いつものオウム返し
でも間に僕の名前が挟まっているのを聞いたとき
Mが息を吸い込んだのが聞こえた
「まだ十二歳だよ」と僕
「へぇ 中学生か高校生かと思った」とM
考え直したように「じゃあダフネちゃんね」と
ダフネの方を見る
ダフネがまた「ダフネ ダフネ」と言った
「日本語通じないの?」とM
「いや まあ というか」と言いよどむ僕
そのときだった
ダフネがぐっと身を乗り出して
Mの顔に右手を伸ばしMの顔に自分の顔を押し当てた
それはキスしようとしたように見えたが
座席に邪魔されて頬ずりしたようになった
「わあ Kちゃんよりもずっと歓迎してくれてる」とM
少なくとも二つのことが僕を少しだけ安心させる
ダフネはMを嫌がらなかった
Mも状況が全くわからないけれど
ダフネを好意的に受け止めたようだった
でもどうしてダフネはMに
「どうせ何かあるんだと思ってたけど」と
急に覚悟を決めたみたいに座り直して
「ねぇ そんなことないと思うけど
この子 まさかKちゃんの娘 じゃないわよね」とM
「まさか そうだとしたら僕はガキの頃にオヤジになってたことになる」と
僕が笑って言うと「そうよね バカみたい」とM
「でもKちゃんのことだから外国にいたときに悪さして」とM
「おいおい そりゃないよ でも何でそう思った?」と聞くと
「なんかKちゃんと雰囲気が似てる」
Mと知り合ってから何度もMの頭の回転の速さには驚かされた
しばらく会わずにいたのでそういうMを忘れかけていた
「女の直感?」と僕が言うとMがまた僕の方を見て
「え じゃ やっぱりそうなの?」
「違うよ あり得ないだろ」と僕は苦笑する
でもMの直感はいろいろなことを感じとっていると思う
「そうよね」とMが言ったのと
後ろからダフネがまた手を伸ばしてMの肩に触れながら
「マム」と言ったのがほぼ同時だった
今度ばかりはMも驚いたのだろう
ダフネを振り返って「何 これ どういう」と言いかけて黙る
「とにかく 話すから」と僕
「いいわ」と
まるで世界は私が承認しないと動かないのだからと言いそうな
Mの口癖だった
ダフネの「マム」に驚いたのは僕も同じだった
しかも顔がかっと熱くなるほどに
「オーケー じゃ出発」と僕はアクセルを踏んだ