出るのが遅かったうえに
立ち止まり立ち止まりした買い物だったので
コム・ゴギャンに着いたのは八時半を過ぎていた
店は今日も客が多いように見えた
この辺りでは一番の桜の名所なのだからと僕は思う
駐車場は一台分だけしか空いていなかった
車を止めると車に気づいたのか
店主がまた入り口に現れて
「ごひいきにあずかり嬉しいですな」と言う
僕は「いえ あの」と食事ではないことを伝えようとする
「ああ」と人差し指をイタリア人みたいに一本立てて
「どうぞどうぞ 可愛らしいお客人なら大歓迎ですよ」と
桜の方を手で指し示してくれたが
僕はまた「いえ あの」と言い
店の桜ではなく
花見客の多い桜並木の方を見る
店主がまたにこやかに笑って
「どうぞ どうぞ 車はそこでかまいませんよ
今夜も実にお綺麗だ ダフネさん」と店主が言うと
ダフネはその声の方に振り返って
店主の顔をまっすぐに見る
これが一時的なものでないなら
ダフネは何かあのダフネとは別の存在に
変わろうとしている
ライトアップは今夜も控えめで
その少ない光に桜がまた雲のように広がっていた
月は奇妙に赤かった
明日はまた雨が降るのか
降れば満開の桜を瞬く間に散らしてしまうかもしれない
そうなれば今宵の桜が見納めになる
あるいは予想もしなかったような陸を覆す嵐が来て
幹を揺さぶれば
赤い臥待月(ふしまちづき)の怪しさが雨を予感させ
予感が桜までも妖しくしてしまう
ダフネが昨夜したように
一本一本の桜の下をくぐって歩く
近寄って見ると
白い花びらと濃い紅の花芯を持つ花が
無数に枝を被っている珊瑚のように見えた
珊瑚礁の海に夜に潜って
珊瑚を見たらこんなふうに光って見えるのか
一つ一つの花が
一つ一つの珊瑚虫のように生きて動いている
そう思って見る桜は美しさを超えて
どこか生々しく恐ろしくさえあった
人々を魅了してやまない花の
妖しいまでのいのち
夜の春風がぬくぬくと僕たちの身体を包み込んできた
ダフネが立ち止まって振り向き
僕の傍まで早足に戻り
僕の腕に両方の手を絡ませてきた
僕はダフネを妹のように
あるいは娘のように感じているのだろうか
それとも僕の昔に重なる影のような
不思議な生き物として
ダフネは僕にとって何なのだろう
そして何になろうとしているのか
そんな迷いの中で
僕たちは一時間以上も
手に手をとって
夜桜の道を歩きつづけた