日々の幻 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 僕たちの毎日は
 決して幻ではない
 そう言いきるためには
 何があればいいのだろう

 僕たちは廊下で亡霊に出会ったり
 湖から現われる水の精に挨拶されたりしない
 でもシェークスピアのお芝居では
 亡霊や妖精の出番はいっぱいある
 彼らはお芝居のなかだけに棲んでいて
 僕たちの日々には顕われないものだと
 ほとんどの人は信じているだろう

 それでも中には霊たちを見たり
 話したりしたと言う人もいる
 逆に僕たち自身は幻ではないのだと
 僕たちは理由なく信じている
 けれどその証拠はそんなにはっきりしない

 夢はただ脳の一部が醒めていて
 ほとんどが寝ているときに現われる
 夢を見たことを証拠だてることは難しいのに
 実感として確かに僕たちは夢を体験する
 それは幻ではないと言えるのだろうか

 気のせいさと言われたら
 どのような反論材料があるのか
 僕には分からない

 同じように僕たち自身が夢でない証拠は何だろう
 たぶん拠り所になるのは
 誰かが事実として僕たちを認めてくれることだろう
 でもその誰かも幻でないと言えるのかと
 考えればキリがない

 夢でなくても
 悲しい出来事を僕たちは信じたくない
 でもどう見直しても事実であるとき
 それを受け入れざるを得なくなる

 でも時には受け入れるのを拒否することもあるだろう
 拒否された出来事は
 そうやって事実であるのに幻になる

 僕たちの日々は必ずしも
 望んだとおりに展開してはいかない
 望んだことをいつか叶うものとして
 僕らは胸のポケットにしまいこむ

 しまって忘れてしまう夢もあるけれど
 叶っていないがいつか必ず叶うと信じて
 毎日の現実でも少しずつ少しずつ
 叶い続けていくと思ったりする
 でもそれが幻でないと分かるには
 事実として最終的にそれが叶ったときだけだろう

 だとしたら日々の小さなステップも
 小さなステップとしては事実でも
 夢全体の一部分としては幻なのかもしれない
 そうやって僕たちは
 夢あるいは幻と現実との境目を生きている

 それはシェークスピアの例えば
 真夏の夜の夢の妖精たちが幻であるのと
 少し違うだろう
 それは敢えて言うなら叶いっこない夢なのだ
 叶いっこないと分かった夢と
 いつか叶うと思う夢
 どちらが幻らしいだろうか
 そしてどちらが楽しい夢になるだろう

 僕は幻を楽しむのは趣味だなと考える
 ただし命かけての趣味になることは覚悟して
 それから僕の幻はベッドの中で見るのでなくて
 木や花みたいにすぐ夢物語になりそうなものでなく
 毎日のごくつまらない普通の日々の
 座っている椅子や乗っているバスが
 そのまま違う世界に行くような
 そんな幻が好きだなと思う

 きっと日々の生活の中での
 幻の扱い方は人の主観というか生き方しだいで
 人によって違うだろう
 なにしろ主観という奴は
 その人にしか見聞きできない
 特別注文のテレビみたいなものだから
 他の人にはなかなか中が見えないし事実とも分からない

 ましてやもしも主観が心の中だけのものならば
 それはいよいよ幻とどうやって
 区別すればいいのだろう

 ほんとに
 幻ってなんだろう
 この僕も実はあなたの夢にしか出てこない
 幻なのかもしれないね