樹のいのち | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 どういうわけか
 僕は小さい時から木が好きだ
 聞いたところでは僕が生まれた医院の
 中庭には建物を圧倒するほど大きな欅が植えられていて
 生まれた僕は窓から見えるその枝の
 部屋の中まで投げられた木蔭でよく眠ったという

 以来何処に行っても僕の傍にはいつも
 大きな木があって
 それをぼんやりと眺める癖がつき
 何処かに出かけて歩くときにも
 ふと見上げた大樹に見とれて立ち止まる
 木の枝を広げるさまを
 何時間でも眺めていられる気がする
 太い幹であろうと
 まだ若い細い頼りなさそうな木であろうと
 幹から伸びた枝が次々に枝分かれしていく
 様子を見ると
 木でありたいとさえ思うことがある
 動くこともなく
 ただそこに在るだけの木であるにもかかわらず

 屋久杉の樹齢の長さを人は嘆息して語る
 千年二千年の年月を生きた樹
 湿潤な風土に恵まれて
 なおかつ硬い花崗岩の島であることが
 ほんの少しずつ年輪を広げることになり
 あの長寿を生み出したのだと
 しかしごく普通の杉ですら
 もし人が切り倒さなければ
 数百年を生きるのだ
 数百年
 僕の父の父の父のその
 何倍もの先祖より長く
 この星の上に生きてある
 
 いつもは忘れているけれど
 ふとそのことを思い出すと
 僕は樹の不思議さに圧倒されるのだ
 ごく当たり前のように
 樹がそこにいることが
 気が遠くなるほどの神秘だと

 樹の生きる力の激しさは
 いつだったか鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の
 実朝を襲おうと公暁が隠れていたという大銀杏
 老木と見え大風に抗いきれず悲しく折れて倒れた
 銀杏は数百年から千年の寿命ゆえ
 もしかするとその大銀杏は
 実朝の死を見た樹ではなく二代目だったと
 言う人もいたけれど
 切り株のように根元で折れた大銀杏から
 やがて蘖(孫生:ひこばえ)が伸びるのを見たときは
 その木がふたたび高い参道の石段の上までも伸びていくことを
 人は信じようと思ったかもしれない

 西行の
 願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ
 という歌が好きなのも
 きっとそこに大きな桜の木のイメージがあり
 灰となったときには木のふところに
 その灰を撒き静かに憩わせてほしいと
 知らず願っているせいなのかもしれず

 桜が切り倒される音をついには聞くことになる
 チェーホフの『桜の園』が僕には
 胸えぐられるほどに悲しい舞台に思えてしまうのは
 それが木を切るという行為で終わるからだと思う
 
 僕は仏教徒ではないけれど
 ゴータマ・シッダールタが天竺菩提樹の樹の下で
 悟りを開いた話に深く憧れる
 樹下の人
 樹の蔭にありてこそかの人は仏陀となりし
 そんな気がするほどだ

 ブッダガヤの
 天を望むように伸びた
大菩提寺の楼閣の
 すぐ傍には
 かの菩提樹の三代目が今も大きく
 枝と涼やかな木蔭を広げている
 信仰の争いゆえに切り倒された一代目の
 枝を挿し木して二代目が
 その二代目の枝を挿し木して三代目
 
 この「三代目」という表現は
 人間の三代目とはかけ離れた意味だと思う
 なぜならそれは
 同じ一本の菩提樹から伸びた
 枝を二度挿し木したということであり
 人間の孫とは根本的に違うのだ
 つまりその菩提樹は
 仏陀が木蔭を借りたあの菩提樹であり
 紀元前三百年ほどの昔から
 今なおその地で枝を広げていることになる

 仏陀の教えは幾度も深められたり
 変遷してきたわけで
 おそらくは原初の教えと
 今各地にあって数多くの信徒を抱える教派とは
 それこそ幾度も代替わりして変わってきたにちがいない
 けれどあの菩提樹は
 二千年余の時を渡ってきた時の船のように
 今も変わらずその地にあって
 同じやさしい木蔭を投げている

 人間の一世代の時間の短さを
 この菩提樹と見比べるなら
 それは凡百の有象無象の人の教えより
 遙かに鋭く
 僕たちの胸を打つだろう

 だから僕は木を樹を見るたびに
 心の中で手を挙げて
 この星のおおいなる先住者たちに敬礼し
 死ぬときまでの数十年のあいだ
 樹々の一本をも切らぬと誓うのだ