記憶の錠剤 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 小さかった頃のこと
 レストランに杖をつき足元も危なげな
 老人が入ってきてテーブルに座った

 しばらくすると
 テーブルに用意されていたスティック・パンを
 次々にくわえ始めて
 口から煙草みたいにパンが
 何本も生えていた

 数秒前のことも覚えていられない
 短期記憶障害だとわかるようになるには
 15年以上もかかったろうか

 子どもの僕には不思議な光景だった
 若い店の人がやってきて
 そっと肩をたたきながら
 パンを口から引きずり出して
 老人の前のお皿にパンを並べてくれた

 失われていく記憶を
 この若い人が保ってくれたのかもしれないと
 今なら思う
 記憶は脳の中にだけあるとは限らない
 テーブルの上のお皿にも
 身近に置いた杖の柄にも
 本にはさんだ栞にも
 取りのけておいたチラシにだって
 人は記憶を保つのだ

 記憶をひとつずつ錠剤にして
 思い出したくなったら
 それを飲む
 飲むとたちどころに
 小さな記憶をはっきりと思い出す
 便利だろうなと思うだろうか

 それとも
 記憶を一つ一つ錠剤にしたならば
 一日の記憶分でも部屋いっぱいになり
 どれがどの記憶錠なのか
 わからなくなるだろうと思っただろうか

 人は  ときどき あるいは そのうち
 そんな錠剤を必要と感じなくなる
 なぜなら
 記憶を必要としなくなるから

 昨日よりも今を生きるとき
 明日よりも今を生きるときも
 記憶錠の中の記憶より
 今のこの
 一息が大切になるからだ



read_peta こめんとらん なうで紹介