日本への鉄砲伝来(1543年)の5年後に東南アジアのマラッカでヤジローという名の日本人男性が、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教の洗礼を受けました。ザビエルはイエズス会の宣教師としてマラッカに来ていました。洗礼を受けたヤジローは、武士とも海賊とも言われています。
本がないのでwikipediaを参照しますが、ヤジローは薩摩国もしくは大隅国(現在の鹿児島)の出身で、ヤジロー自身やザビエルの書簡によれば、若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れましたが、その罪の懺悔のためにザビエルを訪ねてきたと言われます。ついでにザビエルの宗教営業力で洗礼までしちゃったのでしょうかね。
ザビエルの「マカオから中国にわたってキリスト教をひろめる」という話を聞いたヤジローは、1549年、ザビエルに従ってマラッカからゴアを経て、ポルトガル船に乗って鹿児島に上陸します。これが日本におけるキリスト教布教の第一歩です。
ザビエルは当時の薩摩の領主である島津貴久にキリスト教の布教を認めてもらいました。薩摩ではこれをきっかけにしてポルトガルとの貿易が盛んに行われるようになりましたが、寺や神社に強い反対を受けると即刻、貴久はキリスト教を禁止してしまいました。しかし、その後もポルトガルとの貿易は継続されたのですから薩摩は根っからの商売人であり、したたたかなのですよね。
薩摩から京都を目指したザビエルは長崎や山口に立ち寄って布教活動を行いました。ザビエルは全国での宣教の許可を『日本国王』から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願しましたが、献上の品がなかったために拝謁は叶いませんでした。
その後、ザビエルは失意のまま山口に戻りました。山口では領主の大内義隆の保護もあって多くの信者を得ることができましたし、さらに豊後(大分)の大友宗麟に招かれるなど、日本に3年ほどの滞在で数百人におよぶ信者を獲得できました。
その後ザビエルは日本を離れてインドのゴアへ向かいました。翌年にはゴアから、中国でのキリスト教布教のために出発するのですが、当時、海禁政策をとっていた中国には入国できませんでした。そうこうしているうちにザビエルは中国・広東沖の上川島で病に倒れて亡くなってしまいます。ザビエルは上川島で石灰を詰められて海岸に土葬されましたが、その後、掘り出してみるとザビエルの遺骸は腐敗せずにミイラ化(屍蝋化)していました。上川島の気候を考えれば、この地で屍蝋化するのは極めて珍しいのだそうです。
遺骸はマラッカからゴアに運ばれました。そして1622年、東洋への布教活動と遺骸の奇蹟によって、盟友ロヨラとともに聖人に列せられることになりました。現在、ザビエルの遺骸はゴアのボン・ジェズ大聖堂に安置されていますが、ミイラ化の奇蹟の証として右腕だけ切り取られてローマに送られたそうです。
遺骸に関してはなんだかよくわからない話があるのでwiki「ザビエル」から転載しちゃいます。
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1553年2月、ザビエルの遺骸をマラッカに移送。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の1人の婦人が右足の指2個を噛み切って逃走した。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された。遺骸は現在
ボン・ジェズ教会に安置されている。
右腕下膊は1614年ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に安置されている。この右腕は1949年(ザビエル来朝400年記念)及び1999年(同450年記念)の際に日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示された(知らなかった)。現在、右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。将門とか島田荘司の占星術殺人事件みたいですねw
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さて、ヤジローですが、「ルイス・フロイスの日本史」によれば、ザビエルの布教活動を手伝ったあと、ザビエルが日本を離れたあと、ヤジローは布教活動から離れて海賊の生業に戻って最後は中国近辺で殺害されたという説とフェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという説があります。
ちなみにヤジローの名前ですが、当時の音韻からアンジロウとも、英語読みで天使を意味するアンジェロとも言われるそうです。
日本人初のキリスト教徒は海賊だったのでしょうか?それともザビエルのキリスト教布教のために現れた天使だったのでしょうか?





