今年の4月に深海ザメ「ラブカ」が駿河湾で捕獲され、その剥製が焼津の「深層水ミュージアム」で展示されている。めったに見られない深海魚が浜に打ち上げられると聞くと”地震の前触れか?”と不安になる。記事を読むと専門家が「季節風によって上方の海水が浜辺に押し流されて、それを補うために深い部分の海水が海面に上昇する”湧昇流”に運ばれてきたのだろう」という見方をしている。

そうはいっても、昨年の12月には隣町の牧之原市の浜にリュウグウノツカイも打ち上げられているので現地住民の”災害発生”の不安は増幅しているらしい。

2009年暮ごろから翌年にかけて、リュウグウノツカイが数多く日本海側に打ち上げられたことは記憶に新しい。太平洋側では、ほとんど打ち上げられることはないが、リュウグウノツカイが多く生息しているのは太平洋深海であると言われている。

太平洋に生息しているリュウグウノツカイが日本海側に打ち上げられたのは、対馬暖流によって太平洋から日本海側に運ばれて、さらに冬季の季節風に発生する今回同様の湧昇流によって浅い場所まで押し流されて、岸に打ち上げられたと考えられている。

しかし、よく考えてみれば、地震国である日本では地震の前兆現象なんて常にどこかで起こっているのである。僕も数日前にズラズラと本を引用したが、大災害の後に「あれは前兆現象だった」と言われても遅いのだ。だから、それらをデータ化して緻密に分析すれば大災害発生を防ぐことはできないものの”減災対策”を講じることはできると思う。

「だからやってるじゃねえか!」って?あ、そうですか? ではよろしくお願いいたします。

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専門家によって、地震発生による危険性がいくつも指摘れているのに、政治家の防災対策ごっこ以外、民間による目立った動きがないのは何故だろうか? 日々の多忙さに押し流されて考える暇もないのか? いくつか民間で作られたものもあるが、それは政府と経済優先企業らによるもので、防災名目の商売目的が主であり、役に立たない。

そういうわけだから”発電が目的にあらず”の原発を堂々と稼動してしまう。裏には元々、戦後のGHQ占領時代以来の外圧や、矛盾するが親米愛国団体がある。日本政府というか、責任者たち個々の人間としては原発なんてやりたくはないくせに・・・である。

ま、そんなことはどうでもいい。やりたいようにやればいい。どうせ奴らは国民の言うことなんか聞きゃしない。

「想定3地震で「震度7」も分布図公表(群馬)」


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東京大学地震研究所の佃為成氏が書かれた「地震予知の最新科学」(サイエンス・アイ新書 2007年10月24日発行)には、水位低下、渇水、発光などの怪現象に関する科学的な裏づけが書かれている。

「井戸水の現象と混濁」は、地殻の岩盤に力が加わると地殻変形と歪みが生じる。地面の隆起と沈降も発生する。水位変化のメカニズムは周囲の岩盤の体積が歪む(膨張)と地下水圧が降下して水位が下がるという仕組みである。

「発光現象」は、三陸津波時だけでなく過去の地震を例にとって見てもかなりの怪光目撃証言がある。

1995年の”兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)”でも多くの人々が怪光を目撃している。地震発生は夜明け前の午前5時46分。都市部では多くの人々が外に出て散歩やジョギングをしていて、そのうちのかなりの人々が怪光を目撃している。さらに”地鳴り”も聞こえたという人が大半だった。地鳴りは地震振動が音波に変換されたと考えられ、地震は既に始まっていたということになる。多くの証言を元に調査した結果、発光源は限られており、数百メートルのレベルで放電が発生したと考えられる。

同書では目撃者の証言から発光についてもまとめている。

怪光の形は稲妻、中央が盛り上がった山型、地上から空中に広がった扇型、水平に広がった水平型で、怪光の色は白、青白い、青、緑、黄、オレンジ、赤などだ。地震時の発光は稲妻のように放電や大気の原子や分子中の電子の励起(外からエネルギーを与えられ、もとのエネルギーの低い安定した状態からエネルギーの高い状態へと移ること) が考えられるという。

荷電粒子が気体の原子に高速で激突すると、周りの電子が励起されてエネルギー準位が高くなる。それはすぐ元の準位に戻ろうとするが、その際に電磁波(光)を放射するのだそうだ。佃氏は赤や青の光源は酸素や窒素ではないかという。

地震動とともに発生する空気中音波振動による電子励起、断層や地割れ、地すべりの際に摩擦や岩石破壊によって光る摩擦ルミネセンス発光(物質が電磁波や熱、摩擦などによりエネルギーを受け取って励起され、その受け取ったエネルギーを特定波長の光として放出する発光現象) もあれば、大気中の細かな塵に高速荷電粒子がぶつかっても発光する場合もあるそうだ。

六甲山の北側で稲妻が走ったという目撃者がいた。これは地面に電荷の集積があった可能性があるという。尼崎市でも同様の目撃談があった。尼崎市では稲妻のあと関西電力神埼変電所では、15kVの支線3本のうち、アースに結束された1本に過剰電流が流れ開閉器が作動して停電した。なんらかの理由によって地下から電荷が地面に運ばれて放電したためと考えられている。ただし、この場所は震源断層から数キロも離れており、一概に震源断層によって放電したとは決めつけることはできないという。

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大震災の前には必ず前兆がある。以下は吉村昭さんの「三陸海岸大津波」(2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震および津波(東日本大震災)の直後より、本書の注文売上が急増。文春文庫版の震災前の発行部数は累計49,000部だったが、震災直後に50,000部が増刷された。著者の妻で小説家の津村節子は版元を通じ、増刷分の印税は震災復興に寄付すると表明した”wikipediaより転載” )などを参照しています。

「前兆」

①世相の混乱

震災の前には世の中も混乱しているのが常だ。何か騒乱があれば、それに合わせたように天災地変が発生するようだ。安政の大地震のときは外圧に屈した幕府、将軍継嗣問題で揺れた挙句に安政の大獄を実行した。関東大震災時にも日本は朝鮮を侵略し、経済発展を狙っていたが、それに抗する社会主義者と朝鮮人労働者の提携などで日本は騒乱の渦中にあった。太平洋戦争の終了間際にも大きな地震が発生している。「昭和東南海地震」と「三河地震」がそれだ。

昭和8年に発生した「三陸海岸大津波」時にもそれがあてはまる。

三陸海岸では明治29年の大津波(死者:21915人、行方不明者:44人、負傷者:4398人 )ののち、大正時代までは”大津波のトラウマ”から、地震が発生すると数度の”津波襲来らしき兆候”に混乱した地元住民だったが、そのあとは平静を取り戻して津波の恐怖を記憶から消し去ってしまった。大正12年の関東大震災も、東北にはほとんど被害を与えなかった。

昭和初期、第一次世界大戦による好況の反動が恐慌となってあらわれた。企業の倒産も連続し、巷には失業者が満ち溢れ、製造業の工場ではストライキも頻発した。待遇に不満を持った労働者たちの運動は激しくなっていった。同時に官憲による運動弾圧も厳しくなり、政治では軍部の政治介入も強まっていった。

解雇された工場の労働者たちは故郷の農村に追われ、農村人口は上昇した。農家は兼業の道も断たれて農業のみに従事せざるをえなくなるが、物価が低下すると農家には厳しい痛手となった。特に東北の農村が受けた被害は大きかった。食べるものもなく飢えて栄養失調で死亡したり、一家心中する家庭も多かった。農家の娘たちは身売りされ深刻な社会問題にもなった。三陸海岸の沿岸では内陸側の農村部よりは経済被害は少なかったが、内陸部に通じる道も少なく、各村落は”僻地化”していた。

昭和6年から7年にかけて満州事変、桜田門事件、血盟団事件、満州国の建国宣言、五.一五事件などが発生した混乱の渦中・・・昭和8年3月3日、三陸地方を再び地震と大津波が襲った。

②自然の前兆

三陸大津波の前に以下のような異常現象が見られた。

1.井戸水の減少と混濁

・宮城県では、雨が降らない際にも水が減少したことがない井戸の水が2月中旬から減少していた。違う場所では渇水状態になった井戸もあった。

・岩手県では、津波来襲の20日ほど前から井戸水の現象に気づいてつぶさに観察していたが、各地で井戸の渇水や混濁がみられた。

2.豊漁

・三陸沿岸各地で前例のない大豊漁となった。特にイワシの豊漁は特筆もので、大群が海岸に殺到した。三陸地方のイワシ漁は例年ならば11月いっぱいで終了するが、この時には年を越してもなお漁獲は激増していた。このことに関して大津波来襲後になるが、中央気象台は、昭和8年の1月ごろから続発していた地震の影響を受けてイワシの大群が沿岸に移動したものであることを発表した。

・岩手県下閉伊郡田野畑村島ノ越では、津波の前に大量のアワビが波打ち際に打ち寄せられ、海草類も海岸を埋めるほどに漂着していた。

3.発光現象

明治29年の同地域の大津波でも発生したことだが、津波の来襲前に多くの発光現象が見られたという。以下のように目撃者たちの証言がある。

宮城県では「来襲前に北東方向に2~3回の稲妻のような発光を目撃」「南から北へ稲妻状の怪光」「スパーク状の怪火」「稲妻状の閃光」「海上に放電光のような怪火を見た」。

岩手県では「青い閃光を見た」「青い光が数度発生」「一度、青白い光が海上に閃いた」「発光現象を3回確認した」。

青森県では、「放射状の怪火」「怪しげな閃光」「稲妻状の光を確認」「沖合いに電光状の怪火が発生して消えた」。

4.怪音

津波来襲前後に大砲のような大きな音が聞こえたという以下のような証言がある。

宮城、岩手、青森3県で「沖合から砲声のような音が3回聞こえた」「津波の少し前に砲声のような音が2回聞こえた」「津波来襲の直前に砲声のような音」「地震後に東方に砲声のような音」「地震後30分に東方に砲声のような音」「ゴーーーッという大音響2回」「地震後、津波来襲直前にゴーーーッという怪音」「東方からダイナマイトのような爆発音が聞こえた」「ドンという爆発音が聞こえた」「津波来襲前と引き潮時にも爆発音」「地震中に砲声のような音が聞こえた」「地震後、雷鳴のような音が聞こえた」等々・・・。

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「中原中也と村山槐多の孤独な死」

中原中也は、昭和12年1月、千葉市千葉寺の中村古峡療養所に入院し、結核の治療を行っていたが、翌月に退院して鎌倉の寿福寺境内に転居。10月に結核性脳膜炎発症し、鎌倉養生院に入院するが、同月22日に永眠。戒名は「放光院賢空文心居士」墓は、郷里の山口県山口市吉敷の経塚墓地。

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村山槐多は、大正7年に信州へ旅立つはずだったが、どういうわけか亀戸天神のすし屋に通い、4月には根津六角堂の中で生活。突然、結核性肺炎を発症。9月に九十九里浜に転地療養。勝浦東条村にあった東条病院に入院したが、脱出。東京を目指して一日に平均10キロメートルずつ歩くが、7日目に倒れてしまう。しかたなく旅人宿に泊まるが喀血。宿を出た槐多は、宿の近所にあった酒屋で一升酒を買って、海辺に住む画家の男性をいきなり訪ねて、あっけにとられている画家に向かって毒舌を吐く。さんざん言いたいことを吐き出して相手にされぬとわかると、浜に出て岩の上で酒を飲んでは血を吐きを繰り返した。死のうと思ったのだった。1時間後に宿の主人に発見され、車で病院に送られた。10日後に鴨川から汽船で東京に戻った。牛込の両親の家に落ち着くかと思ったら、代々木の奥に一軒家を借りて住む。鐘下山房と名づけた。精神的にも楽になって病も回復していった・・・。

この頃の槐多は、しきりに人に酒をすすめ、自分はサイダーを飲んで喜んでいた。そして猛烈な勢いで絵を描き始める。友人の絵の具をおかまいなしに使っては絵を描きまくる。死が近づいているのを察していたのかもしれない。

槐多は孤独が頂点に達して精神を病んでいた。

出かければ、電車の中でも映画館の中でも奇妙な格好をしては道化と化した自分を晒して笑いものにさせ、彼の孤独を理解できるはずのない人々は彼を嘲笑した。2月、槐多は風邪をひいた。隙間風が部屋の中をふるわせる鐘下山房で、槐多は風邪をひいてしまった。金がないので綿のない布団にくるまって横になっても風邪の症状は益々酷くなるばかりだった。

雪まじりの雨が激しく降るある日、槐多は鐘下山房を飛び出して行方不明になった。槐多を愛する仲間たちは冷たい雨の中、槐多を探した。午前2時頃になって草むらに倒れて、苦しむ槐多を発見して山房に連れ帰って濡れた着物を着せ替えて医者を呼んだ。「医者は翌日の夕方までもたないだろう」と言った。

2日後、槐多は「白いコスモス」「飛行船のものうき光」という謎めいた言葉を残して永眠。谷中功徳寺に埋葬。その後、雑司が谷共同墓地に駆り埋葬。その後、友人たちによって墓碑が建てられた。

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