以前、両国の旧安田庭園に行きましたが、あの庭園は元禄年間に大名庭園として築造されたもので、明治になってから岡山藩主だった池田章政のものとなり、明治22年(1889)になって安田財閥の創始者である安田善次郎が購入しました。その後、大正11年(1922)に善次郎が都に寄贈しました。
その安田善次郎ですが、彼は天保9年(1838) に現在の富山県富山市に生まれました。ご存知のように安田財閥の祖です。
安政5年(1858)に、善次郎は僅か二分八百(といっても、今のいくらくらいなのか?)のお金を持って、奉公人として江戸に出ます。初めは玩具屋、ついで鰹節兼両替商に勤めた。やがて安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物等を次々と設立しました(この部分wikipedia)。
一代で財閥を興した人間だけあって、働かずに人の懐ばかりあてにして暮らす当時の浪人や社会事業家を極度に嫌っていたと言われます。
世間には「吝嗇家(ケチ)で人に金を出すのは少しでも嫌で、それが命取りになった」と世間に噂された人です。
命取りになったとは・・・?
大正10年(1921)9月28日の朝8時ちょっと過ぎのことです。善次郎は大磯天王山の別邸寿楽庵の奥にある書院で新聞を読んでいました。そこへ書生の山梨という男が入ってきて、来客を告げました。客というのは前日にもやってきたひとりの男でした。男は「東京の風間弁護士」と名乗っていました。渋沢栄一と警視総監だった岡喜七郎の紹介状も持っていました。
会いたくない善次郎は山梨に「後日、東京で会いたいと言ってくれ」と断らせたのですが、男は「明日でも今日でも同じこと。ぜひ、今日会っていただきたい」としつこかったので、善次郎は根負けして、しぶしぶ会うことになりました。
風間弁護士と名乗る男は30歳を過ぎたばかりに見えた。上等な服装をしていたが、耳の下と顎に傷があったといいます。
風間は懐から”労働ホテル設立趣意書”と書かれた書類を出して「千住の貧民街に無料宿泊所を設立したいので、寄付をお願いしたい」と善次郎に言った。
当然、吝嗇家の善次郎は冷たく断ったと思われます。
お茶を持ってきた女中の目撃談では、2人は凄い形相で睨みあっていたといいます。それから30分ほどしてから「栄吉!栄吉!」と門番の男を呼ぶ善次郎の声が聞こえました。先ほどの女中が駆けつけると、善次郎と風間は庭先でもみあっていて、善次郎は血まみれで、風間は善次郎に馬乗りになって突き刺そうとして短刀を振り上げていました。
男は女中に気がついて凄まじい形相で「近寄ると、きさまも殺すぞ!」と叫びました。恐ろしくなった女中は隣にある隣の旅館”長生館”に走って人を呼びました。
二人が金を出せださないで口論になっているとき、風間が懐から刃渡り九寸五分(約30センチ)の短刀を抜き出して善次郎の顔に切りつけました。さらに右胸に突き刺しました。善次郎は庭に逃げようとして、庭に向った廊下から転げ落ちて、そこに風間が馬乗りになったところを女中が目撃したようです。
女中が長生館に走ったときに風間は善次郎の咽喉にグサリととどめを刺しました。善次郎が死んだのを見届けると彼は立ち上がり、書院の縁側まで歩くと西洋剃刀を取り出して自分の頚部を右から左へ深く斬りまわして自殺してしまいました。
犯行の手がかりとしては二通の斬奸状と数通の遺書しかありませんでした。書類の表書きには”朝日平吾”という署名がありました。事件を担当した検事がそれを保管してしまったために、しばらくの間、世間に真相が伝わりませんでした。
風間弁護士は東京の牛込に実在しており、当時は病臥中でした。彼に連絡したところ「私は安田家に関係ない。朝日という男は知っているが労働ホテルの計画など全然知らない」と言ったそうです。
朝日平吾は長崎県佐世保の出身で福岡中学を卒業後、日本大学に入学したが中退し、満州に渡って放浪し国士(国中の人物の中でも特に優れた人物のことをいう。転じて、その国を憂い、その国のために私財を投げ打つなどして貢献する人のこ)気取りで、政治運動をやったり、大石寺に入ったりしましたが長続きせず、その後、神州義団を組織して渋沢栄一の兜町事務所に行って、寄付金を強要。断られるとその場で切腹しようとしたので渋沢は驚いて二百円を与えたことがあったといいます。
一時、株に手を出したことがありましたが失敗。安田が一手に株を買い占めていたので、それを逆恨みしたとも言われます。
朝日の友人の一人は「朝日は口癖のように社会を呪い、富豪たちが私欲のためには出資するくせに社会事業には出資しないと怒っていた」と証言しています。
さらに朝日は”死の叫声”と題する遺書を書き、友人が彼の家を訪問した時に「しばらく旅行するから荷物を預かってほしい」と、友人に紙包みを預けて消えたと言います。事件後に開けてみるとその遺書でした。
他にも毎日新聞社、北一輝宛の同様の遺書が書留で送付されていたといいます。