朝、洗濯機が動いて「ウンウンウン・・・」と機械的な唸りをあげている。

僕は、また鏡を見ながら歯を磨いている。

鏡の中で歯を磨く自分の姿がブレて二重に見える。子供の頃から乱視なので「いつものことだ」と気にしないで歯を磨き続けていると、二重に見えていた僕の後方のブレた姿がやけにはっきりと見えてくる。

まるで僕の背中にぴったりと密着するように誰かが立っているように見える。

歯ブラシを咥えて口の端っこに固定させて、目をこすって鏡の中の自分の姿を凝視すると、後方のブレが鏡に映る僕の姿を中心にひとりでに左右にユラユラと揺れている。

ゾッとして背筋が凍る。こんなときにはゆっくりと振り向かない方がいい。ゆっくりと振り向いて”口まで避けた不気味な顔”を間近に見るのは嫌だから・・・。だって、ホラー映画って、みなそのパターンじゃないか?

いきなり振り向くのだと自分に言い聞かせながら「誰だ!」と大声で叫びながら振り向いてみる。

しかし・・・何事もない。

ほっとして「気のせいだ」と自分の臆病さにニヤつきながら歯磨きを続ける。

鏡というのは不気味だ。自分の姿は本当の姿なんだろうか? 他人にも同じように見えているんだろうか? と考えることがある。もしかしたら他人には僕の姿は河童に見えるかもしれないし。

シュッシュッっと充分に歯磨きをしてから、口を濯ごうとした際に、鏡には僕の後ろに人らしきモノが立っているのがチラリと見えた。そいつは真っ青な顔でやけに大きな白目だった気がした。

「やっぱり誰かが立っているのだ・・・」

あまりの恐ろしさに鏡を見る勇気も、また振り向いて叫ぶ勇気もない。

恐怖感から発作的に口を濯ぐためのコップに歯ブラシを放り込んで、蛇口を捻って水を噴出させ、両手で水を受けて口に運ぶために前かがみになった瞬間・・・鈍い痛みが僕の左目に走る。

コップに放り込んだ歯ブラシが僕の左目に突き刺さったのだ。

真紅の視界の中、ドタドタドタと何者かが走り去る音がした。
ロシアのロマノフ王朝を退けたロシア革命の余波は、日本にも大きく影響しました。昭和の初期には恐慌、失業増加の不穏な世相の中に共産国家を理想郷として夢を追った若者の中には、本来ならば共産主義に対抗して天皇家を守るべき華族の子弟も多く含まれていました。

政府は1922年に秘密結党された日本共産党を、ロシア共産党のコミンテルンから革命指令を受けた政府転覆機関とみなしました。23年以降は一斉摘発を繰り返して危険思想が蔓延することを力づくで抑えつけました。

33年の全国検挙では治安維持法違反容疑では約15,000人が検挙され、起訴は約1,300人となりました。小林多喜二もその年の犠牲者です。

その際に検挙された中の15人は華族の子弟でした。松平定信の末裔である定光、元外務卿を務めた副島種臣の孫の種義、明治天皇の侍従長を祖父に持つ山口定男などの中に女性も1人検挙されました。岩倉具視のひ孫、岩倉靖子でした。

靖子は「私には善悪の観念が芽生えて、すべてのものを一律に善悪の区別をつけることを常としました。それも主に同情心から出る善悪感でした。学校での修身やキリスト教の道徳はそうした観念の基礎になりました」という獄中手記を残しています。

同情心・・・これは昭和初期の大恐慌にともなう大量の失業、大ストライキ、農村の疲弊、満州事変、五・一五事件、日本の国際連盟脱退と坂を転がるように最悪の事態に落ちつつありました。軍部は右翼革新運動テロ、クーデターに走り、支配層は軍部の暴力に戦々恐々として何もできない閉塞した時代でもありました。

「私の愛国心は道徳的愛国心」と言う靖子は、真の意味の愛国心を抱いていました。国粋的な意味合いの愛国心ではなく、軍国主義は病気国家であり、世界に誇れない国になってしまった。ロシアは芸術文化によって世界に知られたが、日本は日清・日露の流血によって世界に知られるようになった。

靖子は流血侵略に傾いている当時の日本国家を嫌い、ある意味で正義感に燃えるうちに海外の自由主義思想に影響を受けて、「ついにはマルクス主義に行き着いた」というのです。

「明治維新は多くの青年たちが死を賭して維新革命に参加した。共産革命は全く違うが、同じ道程を経て青年がそのための運動に参加するのは当然」と靖子は言い放ちました。

赤化華族事件の被疑者15人は検挙後に、靖子を除いてほかの14人が短期間で改悛したが、靖子だけは思いが固く8ヶ月の留置から保釈されて間もなくの33年12月21日、自分の思想によって岩倉家の家族として地位が危うくなることを恐れて自ら剃刀で頚動脈を切って自殺してしまうのです。

絶版となった「20世紀 大日本帝国」(読売新聞20世紀取材班編 中公文庫)を参照しています。
昨夜というか本日早朝といえばいいのか?午前1時過ぎのこと。寝ようとしてベッドで横になっていると、かみさんが「何の音?」と聞く。僕にはキッチンで食器洗浄機が動いている雑音しか聞こえなかったが、その雑音の中に「グエ~グエ~」と大きな音が混じっている。その音はキッチンからではなく、ベランダの方から聞こえる。ベッドを出て、恐る恐る音の元を確かめようと音がするベランダを見に行くと、ベランダの手すりに大きな翼を持った塊がとまっていて、僕に気づいたのか灰色に斑模様の鳥がバサバサっと飛び立った。フクロウだった。ここに引っ越してきて5年になるが始めてフクロウを目撃した。近くに大きな森がいくつかあるので、多分いずれかの住人だろう。びっくりして暫く震えが止まらなかった。あの鳴き声が妖怪である鵺の様に思えたからだ。本当に恐ろしかった。


かつて日本には、北海道に「蝦夷狼」、本州、四国、九州全域に「日本狼」の2種類の狼が生息していました。

蝦夷狼は、大陸型の系統で大型の狼です。アイヌからは「ウォセ・カムイ(吠える神)」と呼ばれて、偉大なるものとして扱われていました。

しかし、明治時代になると新政府が蝦夷地開拓を始め、その入植者たちは鹿の乱獲を行いました。それまでは鹿を生きる糧としてきた蝦夷狼たちは食料が少なくなって入植者たちが飼育する家畜を襲うようになりました。

すると、蝦夷狼は開拓を阻害する危険な害獣とみなされ、大規模な蝦夷狼殲滅作戦が行われました。

殲滅方法は馬肉に「硝酸ストリキニーネ」を仕込んで蝦夷狼たちを殺すというものです。そのため硝酸ストリキニーネは東京や横浜から大量に買い集められ、それでも足りないというのでサンフランシスコにまで発注するほどでした。

同時に懸賞金もかけられました。一頭の捕獲に初期では2円(当時の公務員の初任給は50円。米10キロは1円50銭)で、明治15年には10円にまで上がり、懸賞金で生活をする人々も増加しました。徹底的な殲滅作戦によって蝦夷狼は明治22年頃に絶滅してしまいました。

一方、日本狼はどうでしょう。日本狼の方にはちょっと面白い逸話が残っています。

日本狼は日本以外には生息していない日本独自の種類の狼と言われています。蝦夷狼同様にかつては田畑を食い荒らす鹿や猪などを自然駆除してくれる農耕の守護者として崇められましたが、江戸時代の享保17年(1732)以降は狂犬病の侵入によって、死に至る病を運ぶ危険な害獣になってしまいました。急速な鉄砲の普及によって日本狼もあっという間に減少します。

明治38年(1905)1月23日、奈良県の高見川と鷲家川の合流点に位置する鷲家口という村の”芳月楼”という宿に宿泊していたアメリカ人のマルコム・アンダーソン(ロンドン動物学会と大英博物館による東亜動物学探検隊隊員で、日本に動物収集を目的に来日)と通訳として同行していた金井清のもとに3人の猟師が現れました。彼らは”珍しい動物を買う外国人”の話を聞きつけてアンダーソンを訪ねてやってきたのでした。

「これを15円で引き取ってほしい」と彼らは日本狼らしい動物の死骸を見せました。珍しい狼の死骸なのでアンダーソンは凄く欲しいのですが、いくらなんでも15円は高すぎるとしてアンダーソンは「8円50銭」を提示しましたが、結局、物別れに終わりました。アンダーソンは「15円でも購入すればよかった」と後悔していると、猟師たちが戻ってきて結局「8円50銭でいい」と言って取引が成立しました。

この時の日本狼の頭骨と毛皮は現在でも大英博物館に保管されているのですが、驚くことに、この際の日本狼の死骸が「日本で最後に目撃された日本狼」だったのです。

第12回小学館ノンフィクション大賞受賞「愛犬王 平岩米吉 伝」片野ゆか著 より

*いつものことですが、原文通りではありません。
先ほど財布の事件について書いていて、思い出したことがあります。うちのかみさんはオッチョコチョイで、よく財布やお金を落とします。

数年前のことです。かみさんが東武野田線の鎌ケ谷駅近くで3万円入りの財布を落としたのです。3万円っていえば、大金であります。僕はひどい男ですから口汚く神様を罵って泣かせてしまったのです。

それから数日後にポストの中に無記名の封筒が入っていて、開けてみると、かみさんが落とした財布が入っていたんです。しかも3万円もそのまま入っていました。

写真の封筒がそれなんですが、整ったややマスコミ文字のようなきれいな字で当時の住所が書かれています。中には手紙が入っていて「住所の手がかりがあったので、送ります。お知り合いのものでしたらお渡しください」という気遣いまでされています。財布にかみさんの名刺が入っていたので、拾っていただいた方が、それを見て我が家まで送ってくれたんですね。

当時、かみさんと僕は手を取り合って本気で泣きましたよ。馬鹿な夫婦です。